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随 筆



薄霧の                       百錢会通信 令和7年9月号より

 平安貴族文化というものを私は長く毛嫌いしてきた。今振り返ればそれはただの「食わず嫌い」だったように思う。退屈凌ぎにやれ四季の風情だ恋だのを、いとおかし、いとゆかしと、ひねもす夜もすがらめでて暮らす、誠に佳いご身分なことですな・・・と、野卑な皮肉を心の中で呟いてきたものだが、そういう気分がいつの間にか消えていた。それがいつ頃からだったのか、判然としないのである。

 この世に生を受けて60年一巡り、心境の変化が起こるような、何かの事件はなかったかと記憶の回廊を辿っては見たが、何もかもが夢うつつの中を通り抜けて来たようで、ただ何となく今の自分に流れ着いたとしか思えない。そんな時に母が何を思ったか「お前は今まで生きてきて一番辛かったのはいつだったか?」と問いかけてきた。私はこれこの通りにただ流れ流れて生きてきたので、咄嗟には何も思いつかないと言った。強いて言えば、芸術としての尺八の道を選んだものの、糊口を凌ぐ仮初の舞台にばかり明け暮れ、ついには岡崎自修師からも父からも見放された頃が一番辛かった時期かも知れない、と答えた。自分を導いてくれる親師匠はもはやこの世にないことの孤独を、厳しく思い知らされる日々だった。

 話はそれるが、朝の散歩の道すがらに摘んできた野の花の写真を、時折送ってくれる友人がいる。先日は小さな野菊で、風流なことに花の後ろに新古今和歌集の歌が添えられてあった。

薄霧の 籬の花の 朝じめり 秋は夕べと 誰かいひけん

 顔を見合わせれば暑い暑いの連発で、一体秋は何処へ・・・と嘆くばかりのこの頃だけに、友人の心憎い季節の先取りが、私にはこの上ない一服の清涼剤となった。と同時に「薄霧」の優美な筆跡がやけに瞼に残り、中々消えない。しばらくしてはたと気づく。「霧だ、霧海篪だ!」と。

 「霧海篪」という曲に取り憑かれてかなり入れ込んで稽古していた時期があった。CDを自費出版し始める少し前だから、平成の初め頃である。古伝三曲の一つであるのに、正直に白状するとこの曲の稽古が手薄であるという自覚が当時の私にはあった。親の所為にする訳では無いが、この曲は岡崎師も父も余り踏み込んでいなかったのである。頼る師もなく覚悟して「霧海篪」を稽古し始めたことは鮮明に記憶している。

 この曲は掴みどころが無い・・・という印象を持った人は少なくないだろう。しかし「幽玄」と「余情」の2つのキーワードが私の胸裡に拡散して、これしか無いという解釈は直ぐに固まった。もちろんどこまでも私の独善に過ぎないのかも知れないが、恐らくは神如道による「霧海篪」の再構成を分析しても、そんなに的外れではないと思っている。

 尺八古典本曲の全ては暗示的で黙示的と言えるが、それぞれの方向性は多岐に渡る様々な楽曲の複合体である。特に古伝三曲の中の「虚鈴」は、研ぎ澄まされた内向性による心的エネルギーの抽象化であるのに対し、「霧海篪」は象徴によって幻想的で絵画的な詩情の世界を現す。この感覚に辿り着いた時に、私の平安文学の世界観に対する偏見はほどかれたのではないかと、いま一人合点しているのである。

 因みに岡崎師は「虚鈴」がテーゼで「霧海篪」はアンチテーゼ、そして「虚空」がアウフヘーベンであると主張していたが、私の「霧海篪」に対する解釈は、岡崎師のこの「古伝三曲弁証法論」にも矛盾していないと思う。私は勝手に師父の手掛けられなかった仕事の一つを補填した気でいるのだが、果たして冥界の父たちは、どんな顔をして私を眺めているだろうか。そんな心境こそまた「霧海篪」的ではないかと夢想するのである。




憑 依                       百錢会通信 令和7年8月号より

 市川某とかいう歌舞伎役者が襲名披露でマスコミのニュースを賑わせている時、インタビューに応えて次のようなことを言っていた。役者の名前というものはきっと時空を超えた世界をいつも飄々と駆け巡るエネルギー体みたいなもので、目に付く者があれば地上に舞い降りてそれに取り憑いてしまうという・・・、今回はそれが偶々この私だった、というようなファンタジーを呟いていたのだ。流石に役者は咄嗟のコメントも一流で、上手いこと言うものだと思ったことがある。

 「この偉大な名蹟に恥じぬ様に、日夜研鑽に励んで参ります故、皆々様にはこの後もご教示賜り、倍旧のお引き立てを何卒宜しくお願い申し上げまする。」などという紋切り型の挨拶ではお客様は満足しないことを良く知ってのコメントなのだろう。勿論、伝統に連なる者はまずこの謙虚さ無くして何も始まらないと肝に銘ずるべきではあるのだが、一見、愚にもつかないような空想に耽る時間はむしろあった方が良いと思っている。

 私は実はずっと昔から何かに取り憑かれていて、宜しいように操られて生きてきたのではないか?、そんな空想をすることがここ数年とても多くなってきた。特に昨年、生まれて初めて緊急処置を要する病気をして以来、既に見送った恩人の面影がやたらと瞼に泛ぶのである。尺八の縁で繋がっていた故人 ― 父や伯父、師匠、心から応援してくださった門人、箏曲の先輩や友人などなど ― が、何かのエネルギー体を運んでは私に貼り付け、その憑依によって生かされてきたのではないか?そのように思われてならない。

 この度私儀、重要無形文化財保持者認定の知らせを文化庁から頂いた。私のみならず、多くの方がこの意外な展開に驚かれたことだろう。私を取り巻くエネルギーの渦が、うねりが、大きな一つの波動となった結果ではないかと思う。この出来事が私にさらなる艱難を強いるかも知れないし、穏やかな春風を呼び込むのかも知れず、いずれにせよ予想を遥かに超える未来が訪れることだろう。それら全てを受け止める覚悟で、今私の心身には、到底言葉では表しきれない感謝の念が満ち溢れている。




思考の逆転                   百錢会通信 令和7年7月号より

 馬鹿馬鹿しいと思われても仕方のないような話ではある。日常の様々な作業とそれに付随する作業とを並べて、その主従関係というかその本末を、頭の中であえてひっくり返すことを私は最近頻繁に行っている。例えば食事をすれば使った食器を後で洗うのだが、この場合食事をすることがまず第一義であり、食器を洗うことはそれに付属する労働だと考えるのが普通である。ところがここでちょっと立ち止まって疑問を投げかけてみるのだ。実は皿を洗うことの方が大事なのではなかろうか?・・・と。

 「そんな馬鹿げたことがあるものか、皿を洗うために物を食べているなんて考えることに何の意味があるか!」と、多くの人が嘲笑うことだろう。「では何故に食べることの方が皿を洗うことに優って大事なのか?」「それは人間食べなければ死んでしまうからだ。」「では何故生きることがそんなに大事なのか。」「それは人の命が尊いからに決まってるだろ!」「どうして人の命が尊いのか、そもそも生きるとは死に至る一筋の道程ではないか?」「そんなくだらない屁理屈に付き合う暇はない、とっとと豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ!」・・・市井の議論の終着駅は大概そんなところだろう。

 集団的無意識というか、普段当たり前と思っている前提・定立といったものは、よくよく突き詰めて見ればその根拠は意外に曖昧というか、刹那的な願望や思い込み程度のことが多いと思う。ただここでその絶対真理を追究しようなどというつもりは毛頭ない。誰もが当たり前と思っているテーゼを仮に否定して行動してみると、案外楽しいことは多いものだということを呟いてみたかっただけなのだ。

 例えば食後の皿に残るソースの残滓は汚れではなく、楽しい食事の余韻であると言い聞かせる。それを洗い流すことは宴の終わりではなく、次の夕餉に向かう序章であり、今日も美味しく頂けたことへの感謝と、生命を育む明日の食事への希望がそこに交錯する。そう思えば元は面倒でしかなかった皿洗いの方が、むしろ喜びの時となるのではないか。今や私にとってそれはこじつけでも何でもなく、ごくごく自然に肌に馴染んでいる。

 ナチスのアウシュビッツから奇跡的に生還したユダヤ人心理学者のビクトール・フランクは言う。財産を根こそぎ奪われ、人間としての尊厳を極限まで収奪されても絶望しなかった者が、あの悪魔の収容所で生き残ることが出来たのだと。絶望した多くの人間は、ガス室に送り込まれる以前に息絶えた。では絶望しない者は心に何を秘めていたのか。それはかかる苦悩に満ちた生活にも何かの意味があるかも知れないという思念であったという。そしてそれはやがて、自分が人生に何かを求めるのではなく、人生が自分に何を求めているかについてじっと思いを凝らすという行為に発展していった。この人間の思索におけるコペルニクス的転回こそが、人を絶望の淵から救い出す、重要な鍵となったというのである。

 皿洗いを楽しむという発想の転換とフランクのいう思考の転回とでは、ずいぶんと話の「ランク」が違い過ぎると思われるかも知れないが、あえて並べて記しておきたい。去る4月に開かれた国際尺八フェスティバルに参加するために、2週間程テキサスに滞在したが、その時、海外の食洗機の普及状況にとても驚いたものだった。そこには「食器洗いは面倒で不快な害悪でしかない」という猛烈な意識が潜んでいると強く感じた。頭の中で非常に合理的に単純化された意識や思考を過度に重視すると、自然界や人間の無意識の世界のような、「不可解なもの」がただのノイズでしかなくなってしまうだろう。その感性では日常に本当の美の世界を呼び込むことは出来ないと思う。

 『菜根譚』に「達人は物外の物を観、身後の身を思う」という言葉があるが、私にはフランクの言葉がこの『菜根譚』に重なるし、それが食洗機の効能を手放しに称賛する現代文明人に対する警鐘であると思われてならないのだ。




鍛 錬                       百錢会通信 令和7年6月号より

 昔の日本映画の制作秘話で、私が印象深く記憶している一つ話がある。名前と事の仔細は記憶違いかも知れないが、確か監督は小津安二郎で役者は笠智衆だ。

 台詞もなくとぼとぼ家の廊下を歩くだけのシーンに、何としても監督のOKが出ない。笠の役者としての不器用ぶりはつとに有名で、NGの連発は当たり前。彼の撮影が始まるとスタッフが帰り支度を始めるなどという逸話も数多い。それでも小津の根気強い演技指導はいつも何十回と繰り返されたそうだ。さてそのカットについても、姿勢、佇まい、表情、動く速さなど、色々に試行錯誤を繰り返すが全てNG。たったその1シーンの為に、徒に日数ばかりが過ぎて行き、笠の精神状態は限界まで追い詰められていた。「君の演技より 僕の構図の方が大事なんだ」という有名な言葉が表すように、監督の設計図に絶対的な権限が与えられていた時代の出来事である。監督が諦めない限り、笠には殆ど人権すらも認めてもらえないような状況だったのかも知れない。正に進退窮まり何も考えられなくなったその時、次のテイクで何故か監督のOKが降りた。

 これは演技に究極のリアリティを纏わせる為の、監督の俳優に対する策略だったのかも知れない。が、その真偽はさておき、私が先達から伝え聞いてきた様々な稽古の現場に、似たような逸話が実に多いことで、それがちょっと興味深かったのだ。例えば、こんな具合に。

 ある曲を稽古していて、その中のたった一句が出来ない故に、十日経っても二十日経っても一行も前に進めず、駄目だ駄目だと大喝される。途方にくれて師匠の前でポロポロと涙を流す事も数知れず、幾日も同じ事を繰り返し、いよいよ本日駄目なら今日この日限りにこの道を思い切ろうと覚悟を決めて臨むと、「それで好い!その間を忘れるな!」と、忽然と印可が降りたりする・・・。多少なりとも見込みある者には、本人が本気で全力を傾けて精進工夫するまでは駄目だ!駄目だ!を繰り返して、何も教えてくれない。意地悪の様に見えてもこれこそが師匠の情けで、これ無くして真の上達は無い。そして、弟子は辛いに違いないが、師はその何倍も苦しんでいるのだ、というような話で締め括られる。

 私自身はそんな厳しい修行をしたことがないので、何処かお伽噺の様に感じてしまうのも事実だが、一点、強く共感するところがあってこの話題を取り上げようと思ったのである。それは、芸の最も大事とすることは何なのか?という視点である。まずは次の芸話を味読頂きたい。幕末から明治期に活躍した、金春流能楽師の言葉である。

 「近來は世の進歩とでも云ふものですか、若い方には器用な人が多うございまして、中々感心に達者に出來ますが、同じ器用でも、よく鍛錬した人とせぬ人とは、其の藝の厚さが違ひます。器用に任せてやる人は、兎角出來過ぎる氣味があります。此の出來過ぎると申す事が、藝に取つては深く注意すべき事で、自分の工風工面が交るのです。鍛錬の結果自然に出る光澤は、誠に麗しいものですが、器用から出た工面の光は、見飽きがして藝に重みがありません。」(櫻間伴馬藝談)

 櫻間伴馬は天保年間、熊本生まれの能楽師で明治の三名人と言われる。「鍛錬」というその言葉に込められた意味は深く、迂闊に古の「荒業」至上主義と捉えてはならない。芸能者は器用という事に深く注意を要す可しとの訓戒が、痛烈に私の心に響いてくるのである。手練手管に長けただけの曲芸師に、神事としての舞台を務めることは適わない。一見理不尽に見えるダメ出し一点張りの稽古も、芸能者が見つめなければならない、曰く言い難い芸境の地平を指し示す、ひとつの方便なのかも知れない。謡い舞う、その源が心のどこに根を張っているのか。その果てしない問いかけこそが、「鍛錬」の意味なのだろう。




故郷を想う                   百錢会通信 令和7年5月号より

 過日、アメリカ・テキサスでの世界尺八フェスティバルが盛会裡に幕を閉じた。私が参加したのは、コロラド・京都・東京・ロンドンに引き続き、今回で5回目となる。世界中の尺八家の集まる祭典を、コロラド州ボルダーで初めて目にしたのが1998年。あれから四半世紀の間に世界の尺八の多様性は想像を遥かに超えて広がっていると感じた。

 かつての主流は何と言っても「禅ミュージック」としての古典本曲だった様に思う。山口五郎先生や青木鈴慕先生の三曲合奏も大変な喝采であったが、同じ琴古流でも三曲合奏よりも「巣鶴鈴慕」や「鹿の遠音」などの本曲の方が、客席の緊張度が高かったと記憶している。いずれにしてもムーブメントの中心はアメリカで、ベトナム戦争を象徴とする大戦後の国際政治に抗議する、若者のエモーションが底流にあったと思う。

 さて、その当時はまだ少数派であったヨーロッパに尺八ソサエティ(ESS)が結成され、約20年を経て世界尺八フェスティバルの舞台がロンドンに移った。開催のそのチェアマンとなったヨーロッパの尺八家達の背景に私が強く感じたものは、西洋音楽の歴史の解体・再構築に果敢に挑み続ける、20世紀以降の現代音楽の流れである。冷徹に分析する視線と共に何か哲学的な迫力があり、アメリカの潮流とは明らかに異質なものがあった。

 それともう一つ、これはあまり注目されていない流れであると思うのだが、それぞれの故郷の景色というか、民俗の香りを身に纏ったままに尺八に親しむ人が増えて来ているということだ。いずれはこれが世界の尺八界の主流になるのではないかと、私は密かに思っている。JAZZを奏でる尺八、フラメンコの血潮溢れる尺八、ケルトの情感豊かな歌声のような尺八、と言った音楽が世界中のアチコチから響いてくるような気がしてならない。その意味において今回のフェスティバルで、これぞ日本!というような情緒漂う日本人の演奏はちょっと少なかったかも知れない・・・。

 そんな思いを胸に、帰国前日の最後のコンサートでは、テキサスのオースティンに現在暮らしている娘の作品である尺八とピアノの二重奏曲を演奏した。日本の心の故郷は、緑豊かな日本の国土と自然にある。ひたすらそんなことを念じて演奏していた。

 インタビューでテキサスの印象を聞かせて欲しいと言うので、平野の広さにひたすら驚嘆したと、大真面目に答えたら、何故か会場が爆笑の渦に包まれた。続けて私はこう申し上げた。日本はお天道様から身を隠す日陰が沢山あるけれど、テキサスの人は白日の元に身体を晒して逞しく生きていらっしゃると、比較文化人類学的な視線で、大真面目に感想を述べたのだが、これがまた大爆笑を巻き起こした。何が受けたのか未だに合点が行かないが、まぁそれも良かろうと思っている。皆喜びに溢れて演奏を聞いてくれたことに嘘はなかったようなので。4年後の世界尺八フェスティバルはサンパウロで開催される。




無理をしなければ              百錢会通信 令和7年4月号より

 「書いて書いて書きまくる。そして、アイデア・着想の貯蓄は全て枯渇し、1ミリのフレーズも出てこなくなった時から、初めて作曲家の人生が始まる」。思わず落胆の溜息をつきたくなるようなとても残酷な言葉だが、それは至極もっともなことだと直観的にそう思った。娘が学生時代に師事した作曲の先生の言葉である。

 某有名アニメーターも似たようなことを話している。「頑張るなんて当たり前で、頑張ったってダメな人間が累々といるのが僕らの仕事だ」。「(それで)眠れぬ夜を送る。その時、結局は自分で考えるしかない。人の慰めや励ましなどこれっぽっちも役に立たない。本当にものを考えると鼻の奥で血の匂いがしてくる。人間は脳みその表面の部分でものを考えている。その下に無意識の層があるが、その更に下にはもう少し暗い部分がある。ところが無意識っていうのは簡単に外に出てきてくれない。うんと困って表面が疲れ果てると、中からふっと出てくる。(だから)考えるしかない」。私には更に背筋が寒くなるような言葉だ。脳の表層に血が滲むとはもちろん感覚的・観念的なことで、現実にそのような生理現象が起きているとは思えないが、そのくらいに追い詰められなければ、無意識から作品のエッセンスとなる泉は溢れ出さないという、実体験に基づく言説である。とても鋭く真実を言い当てているような気がしてならない。

 無理をしなければろくな仕事は出来ない、高いストレスがあるからこそ作品が生まれるという論理には、斯様に奥行きの深い世界があることは、以前から薄々そのように思っていた。ただ依然として残る、とても残酷なことだと思うのは、たとえ無理をしストレスに耐え忍んでも、必ずしも、否、大半はろくな仕事にならぬという現実だ。

 ところが子供の無邪気な好奇心は、時にこんな大人の悩みを他所目に、いとも容易く、軽々と自由の世界に飛躍することが多々ある。これに気づいた時、大人になるということはつくづく切ないことだと思う。そんな悔恨のよぎる場面に出くわすことがこれからきっと多くなるのだろう。否、多いどころかその悔いと共に生きるのが、我々の残りの人生の実体かも知れない。でもそれはそれできっと味わい深いものだろうという、期待というか、むしろ確信を私は抱いている。

 ところで、そもそも無意識の闇から湧きいづる何かによってこそ、芸術は作品足りうるという意識が、現代の表現活動をする者達にどれほどの実感を伴って根付いているだろうか。むしろそのことの方が大きな問題かも知れない。




怒気を含むということ           百錢会通信 令和7年3月号より

 地歌の藤本昭子師が「伝承の力 古典の現在」と題するシリーズコンサートの10回目を迎えた。節目の会の最終演目に選ばれたのが「尾上の松」という祝儀曲で、これが何と30数名に昇る若手演奏家が一堂に会してこの一曲に臨むという、個人主催の演奏会としては前代未聞の大企画である。

 その規模だけでなく、藤本師が「家」に伝わる「秘伝」を他の会派の若い人に惜しみなく公開したことの方がむしろ前代未聞の出来事かも知れない。しかも演奏料を会主が若手全員にお支払いした上での話である。そこまでしてもと彼女を奮い立たせたのは、古典芸能の伝承が絶えてしまう瀬戸際、断崖絶壁の縁ギリギリまで追い詰められているという、強い危機意識以外の何物でもない。約半年に渡る練習期間、若い演奏家もその意気に応えて良く取り組み、その姿はとても感激的であった。因みに昨年12月には泊まりがけの合宿が山梨で開かれ、会場の手配などには百錢会の岩下誠氏が奔走してくださり、その貢献に対して丁重に藤本師から謝辞を頂き、大変恐縮した次第である。

 藤本師の御祖母の阿部桂子先生は、我々にとっては伝説の地歌箏曲家である。私が地歌の右も左もわからぬ二十歳の頃、碑文谷のご自宅の新年会にお声掛け頂き、座興に「夕顔」を一曲致しましょうということで阿部先生も三絃をお弾きくださり、一番端に私も加えて頂いた。阿部先生にお手合わせ頂いたのは後にも先にもそれ只一度きりである。終始にこやかで一言二言何か仰って頂いたが中身は全く記憶にない。精々稽古にお励みなさいくらいのことだったと思う。この文脈から次の話題がどうなるかはもうご想像がつくことだろう、「来客」には優しいが、弟子への稽古の厳しさはなまじではなかったらしい。「その一声に、その一撥に命をかけろ!!」と顔を真っ赤にして発破をかけ続ける。弟子は常にその落雷に鍛えられて来た。そういう環境の中で育ち、しかも直系の血筋を引く藤本師である。後進の指導は言葉遣いこそ穏やかだが、怒気を内包していてかなりの迫力がある。それに比べれば私の稽古など平和で和やかなものだ、というと妻に「そう言うあなたも稽古の時はかなり語気が荒い・・・」とたしなめられた。

 稽古の際に師匠の「怒り」は不用で、それはむしろ害悪すらもたらす、というのが現代の一般的な考え方だ。怒鳴られれば縮み上がって身体が動かなくなってしまう私などは本当にそうだと思う。しかしほんの一昔前は師匠は「怒る」ものだった。「昔の師匠は本当に乱暴で面倒臭いことはみんなブン殴ったモンだ・・・」とは津軽三味線の初代高橋竹山の昔語りだ。技を身につけようとする「職人」の世界の多くは皆貧しかったのだと思う。手取り足取り教わっている時間の余裕はなかっただろう。理不尽に罵声を浴びせられ怒鳴られ殴られ、そうした限界状況の中でしか発揮されない、生き物としての生存本能をフル回転させて時間短縮しなければ、つまり一日技の習得が遅れたなら、飢えに苦しむ時間が一日伸びてしまうという、職人生活の原初の記憶が、稽古の現場には潜んでいるような気がしてならない。

 日本の伝統文化は現在風前の灯と言わざるを得ない。限界状況が日々露わになってきている。しかし飢えが迫っているかというと、そこまで追い詰められているという実感がない。結果、師匠の怒気は空回りするのかも知れない。




揺り色                       百錢会通信 令和7年2月号より

 今年の年頭は、昨年に義父を見送ったこともあり、誠に静かな正月だった。それにしても雑煮のひとつも頂かず、普段と全く変わらぬ食卓で三賀日を過ごしたのは生まれて初めてのことだったかも知れない。新玉の年の初めの寿ぎは、声高でなくとも心に賑わいをもたらす。それがなかった。この歳にして初めて知る静寂というものはあるものだと思った。

 それでも何も食べないわけには行かないので街に買い出しに出ると、マーケットの中には箏・尺八のBGMが途切れなく流れている。そこで初めて「ああ、現世は正月であった」と、ちょっと夢から醒めたような心地がしたものだった。

 私の同業の多くは、正月のあちこちで耳にするこうした邦楽の音を、実は余り快くは感じていないだろうと思う。まず第一の理由は、せっかくの休暇なのに、邦楽の音を耳にするとたちまち感覚が「仕事モード」になってしまうからだ。録音の音響から演奏のクオリティに至るまで、手厳しい批評家に豹変してしまう、或いはそういう反応をしなくてはならないという強迫観念が働いてしまう。邦楽家にとって正月は因果な季節である。

 気を取り直し、鑑賞者として街中に溢れる和楽器の音を聞いてみるのだが、それはそれで、もっと本質的なことで辛くなってしまうことがある。それは先達が大切に守り伝えてきた、一音の余韻の世界が全く無視されて、雑踏の騒音の中に埋め捨てられてしまうことだ。

 「テーン トン シャン シャシャコーロリン チン トン コーロリン シャン」 これは「六段の調」冒頭の唱歌である。随所に現れる「ン」の文字は説明するまでもなく減衰する音の余韻を表す。そもそも日常のあらゆる音を文字に表せば、殆どの擬音表記にこの「ン」がつくだろう。「ドーン」「カーン」「リーン」「チーン」「ゴーン」「トーン」「ポーン」「キーン」。あらゆる音は消えて行くのだから全ての音に「ン」がつくのは当たり前のことのように思われるが、中にはそうでない音もある。昔の映画館などでは「ブーーーーーッ」というブザーの音がけたたましく鳴っていた。その時間は絶妙な長さで、まだ鳴り止まないのかとちょっと苛立ってきたあたりでブツッと途切れる。あのブザーの音のように、神経を逆撫でするような音でなくとも、変化のない音を一定時間聞かされるのは結構な苦痛である。やはり音は鎮まるのが良い。「マッチ売りの少女」が擦り続けたマッチ棒の先の灯火のように、音は虚空の彼方に消え去るが故に、余情が生まれて幻想が広がるのである。絃が弾かれた後に響く、弓のたわむ様な余韻の幽かなうなりにどうか耳を傾けて頂きたい。

 デパートの売り場の隅にある腰掛けに座って妻と待ち合わせをしていた。やはりそこにも箏の音が流れている。「六段の調」が始まった。「テーン トン シャン」 この椅子の界隈には人影も少なくかなり静かだったので、スピーカーから流れる箏の音の余韻もしっかりと聞こえていた。「シャシャコーロリン チン トン コーロリン」 この一節の「チン」の余韻が、次に続く「トン」と「コーロリン」の間に幽かに揺らぐのを心に留めるリスナーは、今時どのくらい存在するだろうか。「揺り色」といって奏者は左手でこの幽けき余韻を絶妙のタイミングで揺らし、そこに万感の思いを込めるのである。デパートの片隅でこの余韻が聞こえて来た時、私は思わず胸が熱くなり、涙がこぼれ落ちた。色鮮やかにあった日本という文化が、段々と霞んで行く。その速度が弥増すばかりと感じられて仕方ないのは、私ばかりではあるまい。




考えたらアカン                百錢会通信 令和7年1月号より

 年の初めのご挨拶という習慣が減り始め、年賀状の遣り取りが遠い昔の思い出話となる日は、さほどに先のことではないかも知れない。それぞれに個性の反映された賀状に会えなくなるのは、ちょっと寂しいことだ。

 賀状の様式にはいくつかのパターンがあるが、その中の1つに紙面が一杯一杯びっしりと文字で埋め尽くされたもの、と言えば「あるある」と合点される方も多いのではないか。前は目を通すのが大変で敬遠気味であったが、最近はこういう文面に少し興味を持つようになった。

 中でも取り上げられる数々の話題に、むしろ一貫性のないものの方が面白い。政治経済・国際問題から家族のことまで、或いは娯楽・趣味などにも、それらのトピックが多岐に渡り、しかも指向性に何らかの矛盾を孕んでいるような場合は一段と興味が惹かれる。一見結びつかないような点と点の間に光を当てて、実はそれらを繋ぐ目には見えない糸に、特殊な照射を試みるのである。この作業は、虚無僧尺八の稽古に通じると感じた。初めは味も情趣も感じられなかった曲に根気強く向き合い、いつかは真味を見つけ出そうとする、その努力にとても似ているのである。

 さて私がもしもこのような、話題の羅列式の賀状を今作成したならばと想像するに、整然とまとまりある、お行儀の良い、しかし誠に面白くもないものが出来上がることだろう。見かけは聖人君子然として、世を憂い、人の愚行を憂う。それが決して意味のないことだとは思わないが、もう少し大きなスケールで行動してみたいものだ。理屈で堅牢に固められた劇場の中ではなく、目には見えない糸の張り巡らされた空間に漂ってみたい。

 たまたま眺めていたテレビドラマから、「考えたらアカン!ゴチャゴチャ抜かさんと、先に行動せな!」という台詞が飛び込んできた。正しくその通り。まずは身体を動かしてみることだ、と言い聞かせた。

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