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平安貴族文化というものを私は長く毛嫌いしてきた。今振り返ればそれはただの「食わず嫌い」だったように思う。退屈凌ぎにやれ四季の風情だ恋だのを、いとおかし、いとゆかしと、ひねもす夜もすがらめでて暮らす、誠に佳いご身分なことですな・・・と、野卑な皮肉を心の中で呟いてきたものだが、そういう気分がいつの間にか消えていた。それがいつ頃からだったのか、判然としないのである。
この世に生を受けて60年一巡り、心境の変化が起こるような、何かの事件はなかったかと記憶の回廊を辿っては見たが、何もかもが夢うつつの中を通り抜けて来たようで、ただ何となく今の自分に流れ着いたとしか思えない。そんな時に母が何を思ったか「お前は今まで生きてきて一番辛かったのはいつだったか?」と問いかけてきた。私はこれこの通りにただ流れ流れて生きてきたので、咄嗟には何も思いつかないと言った。強いて言えば、芸術としての尺八の道を選んだものの、糊口を凌ぐ仮初の舞台にばかり明け暮れ、ついには岡崎自修師からも父からも見放された頃が一番辛かった時期かも知れない、と答えた。自分を導いてくれる親師匠はもはやこの世にないことの孤独を、厳しく思い知らされる日々だった。
話はそれるが、朝の散歩の道すがらに摘んできた野の花の写真を、時折送ってくれる友人がいる。先日は小さな野菊で、風流なことに花の後ろに新古今和歌集の歌が添えられてあった。
薄霧の 籬の花の 朝じめり 秋は夕べと 誰かいひけん
顔を見合わせれば暑い暑いの連発で、一体秋は何処へ・・・と嘆くばかりのこの頃だけに、友人の心憎い季節の先取りが、私にはこの上ない一服の清涼剤となった。と同時に「薄霧」の優美な筆跡がやけに瞼に残り、中々消えない。しばらくしてはたと気づく。「霧だ、霧海篪だ!」と。
「霧海篪」という曲に取り憑かれてかなり入れ込んで稽古していた時期があった。CDを自費出版し始める少し前だから、平成の初め頃である。古伝三曲の一つであるのに、正直に白状するとこの曲の稽古が手薄であるという自覚が当時の私にはあった。親の所為にする訳では無いが、この曲は岡崎師も父も余り踏み込んでいなかったのである。頼る師もなく覚悟して「霧海篪」を稽古し始めたことは鮮明に記憶している。
この曲は掴みどころが無い・・・という印象を持った人は少なくないだろう。しかし「幽玄」と「余情」の2つのキーワードが私の胸裡に拡散して、これしか無いという解釈は直ぐに固まった。もちろんどこまでも私の独善に過ぎないのかも知れないが、恐らくは神如道による「霧海篪」の再構成を分析しても、そんなに的外れではないと思っている。
尺八古典本曲の全ては暗示的で黙示的と言えるが、それぞれの方向性は多岐に渡る様々な楽曲の複合体である。特に古伝三曲の中の「虚鈴」は、研ぎ澄まされた内向性による心的エネルギーの抽象化であるのに対し、「霧海篪」は象徴によって幻想的で絵画的な詩情の世界を現す。この感覚に辿り着いた時に、私の平安文学の世界観に対する偏見はほどかれたのではないかと、いま一人合点しているのである。
因みに岡崎師は「虚鈴」がテーゼで「霧海篪」はアンチテーゼ、そして「虚空」がアウフヘーベンであると主張していたが、私の「霧海篪」に対する解釈は、岡崎師のこの「古伝三曲弁証法論」にも矛盾していないと思う。私は勝手に師父の手掛けられなかった仕事の一つを補填した気でいるのだが、果たして冥界の父たちは、どんな顔をして私を眺めているだろうか。そんな心境こそまた「霧海篪」的ではないかと夢想するのである。
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