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随 筆



湯 気                     百錢会通信 平成24年2月号より

野ざらしの駐車場の車に朝乗り込むと、フロントガラス一面にビッシリと霜の降りていることが、この時節少なくない。それがまたカチコチに凍っていて、5分やそこらの暖気では容易に融けないのだ。ところがここに朝日が当たり始めると、瞬く間に霜はその姿を消してしまう。住宅の隙間から差し込む、入射角の低いこの光線の中で、さらに湯気となって空中に霧消していくさまを見ていたら、日光の有難さが妙にしみじみと感じられてきた。

作家の名前は忘れたが、生まれたばかりの仔馬を描いた一枚の絵を思い出した。記憶違いかも知れないが、確かその仔馬の体から発する湯気が、やはり同じような朝の光に照らされて描かれていたように思う。少しヒネていた若い頃には、およそ口にすることも文字に書くこともなかった“希望”なんて言葉を、その絵に出合った時はやけに素直に思い浮かべたものだった。

ところで、生まれたばかりの嬰児の体から発する湯気というものは、新しい生命体の活発な新陳代謝による水蒸気のように思われるけれど、実際には分娩によって流失された母の血と体液による湯気なのだ。新しい生命誕生の場面において、母胎にせまる死の影から我々は目を背けることができない。

アメーバのような単細胞生物の細胞分裂は、いわば「母アメーバ」から複数の「娘アメーバ」に変化するわけだが、この分裂によって「母アメーバ」は事実上消失する。この「消失」と有性動物における親の「死」とは簡単に同じとはいえないかも知れないが、いずれにしろ、生命の連続において存在の断絶ということを切り離すことは出来ないだろう。

 “もの”というものが西欧では主に硬質の石で製作されるのに対して、日本では木で作られることが多いということを、私は前から興味深く思っていた。木は石に比べて明らかに保存が利かないわけで、日本人はものを作るときに消失することに余り執着しないというか、あるいは消失することを前提としているように思われて、これはユニークな感覚だと思っている。伊勢神宮が二十年ごとに造営されなおされるシステムにそれが顕著に現れてはいないだろうか。オリジナルはコピーにその生命を託して滅び、そのコピー自体がオリジナルとなっていく。

日本の歌の歴史で「本歌取り」と呼ばれる法則も、これと同じ土壌に生まれたのではないだろうか。オリジナルをコピーして、そのコピーに新たな命が宿る。否、歌だけではなく、日本の芸能すべてにこの精神が流れていないだろうか。少なくとも我らが吹き鳴らす尺八の古典本曲はこのシステムの中で生まれてきたのだと思う。ただ、知的所有権の主張の喧しい現代でこんなことを大声で言えば袋叩きになりそうだから、この辺で止めておこう。寒い寒い朝、日の光の中に立ち昇る湯気を見て新たな命に思いを馳せるのは、春が待ち遠しいこの季節の気候の所為だということにして。



松柏千年の青                 百錢会通信 平成24年1月号より

サボったわけではないが、昨年は虚無僧研究会の小菅和尚が面倒を見てくださる月に一度の参禅会を欠席することが多く、残念だった。釈迦の教えには到底辿り着くとは思えない我が坐禅であるが、真剣に坐った後の清々しさは、尺八本曲を一心に吹き終えたときのそれと全く変わりがないと感じている。

坐禅会に参加すると小菅和尚は、臨済会が発行する「法光」という小冊子を折々に配布して下さるのだが、今年の新年号の巻頭言は「松柏千年の青」であった。傳燈録、石田禅師の語だそうだ。

石田禅師はある時弟子に向かって「但だ本を得て末を愁うること莫れ」(根本の教えを体得して、枝葉末節に関わってはならない)と言い、同時に示した詩が「松柏千年の青 時の人の意に入らず 牡丹一日の紅 万城公子酔う」(松柏の翠のように真理は時空を超えて変わらないが、人々はこれに目を向けようとしない。ところが一時の牡丹の紅に世間は大騒ぎで見物にでかける)である。

簡潔にして平易、誠に背筋のピンと伸びた、年の初めに相応しい言葉だと素直に感銘を受けた。が少し間をおいて、少々次元の低いある想いが込み上げて来た。それは、永年虚無僧尺八という地味なものを吹いていると、箏や三味線の合奏曲や、あるいは現代の“ポップス邦楽”など、世間に持て囃される「牡丹の紅」を、実はどこかで「羨ましい」と思っている自分がいるのではないかという疑念が湧いてくるのである。否、これはもう確実にいるという哀しい直感だ。我が尺八を声高らかに「松柏千年の青」と讃えても、そこには紛々と自己愛的な陶酔が漂っている。美文に飾られた思想はこの意味において危険である。陶酔は所詮一時の夢であるから必ず覚めて、また虚しい一人ぼっちの自分と向き合うことになる。もしもこれを繰り返すなら、いつかは自らを暗黒の独房に幽閉してしまうことになるだろう。「杜子春」のように鉄冠子に救われるならよいけれど、そこで大抵出会ってしまうのは妖しい“教祖”ぐらいのものだから始末が悪い・・・。

「松柏千年の青」と「牡丹一日の紅」を対立させて考えてしまうところに落とし穴がありそうだ。松の翠を前にして、先ずは一吹きしてみようと思う。坐禅してみてもよいと思う。先ずは心を空っぽにすることから、毎年正月の一歩を踏み出そうと私は心がけている。



窮鼠猫を噛む               百錢会通信 平成23年12月号より

 毎月の巻頭言に目を通して今年一年を振り返ってみると、福島のショックが私にとって如何に大きかったかということに気づかされ、我ながらに驚いた。直接話題に触れていなくとも、今読み返すと毎回その時の心にあった福島の憂鬱、その小さな振動が文字になって行ったことがはっきり思い出されるのだ。繰り返して宣言するが、本当に日本の国土は美しいと思うし、私はこの日本に生まれたことを誇りに思っている。この自慢の日本を我々日本人のミスで汚してしまったことに、容易に拭いきれない深い後悔を感じている。福島は人災なのだ。

 悔やんでいるばかりではいけないのに、なかなか気持ちを入れ替えられないでいる自分をこの年の瀬に発見して、ふとその昔、親によく言われた小言を思い出した。「惠介は辛い目に遭った時にメソメソして意気地がない。苦しい時は何クソッという闘争心がなければダメだ!」 私はこう叱られるのが本当に嫌で嫌で、悔しさを奥歯でかみ締めたものだった。辛くて泣いて何が悪い・・・。確かに難局を乗り越えるに闘争心ほど有用なものはないかも知れない。しかし何でも腕力で切り抜けて行くだけでよいのか?この反語は今も私の心の中に響いている。

 高校の芸術選択の授業で私は書道を選んだ。どうやっても真っ直ぐに縦の線を描くことが出来ないので何を書いてもおよそ褒められたことはない。だが卒業間際に「あなたは技がないけれど、仮名の線には魅力がある」と先生に言われたことがある。仮名は曲線が多いから苦し紛れに少し慰めて下さったのだろうけれど、魅力が有るというのだから、とにかく褒められたと思うことにしている。尺八の師匠、岡崎自修師には「惠介の尺八は優しさがあるが、腕っ節の強さ、男の激しさに欠ける」と指摘されたが、それも同じことだろうか。それから様々の方から頂いた批評も同じ傾向だったように思う。

しかし大学の同級生の一人からは「善ちゃんはたまに怒ると空恐ろしい殺気が漲るよ・・・尺八にもそれが表れてるような気がするなぁ・・・」と、他の人とはちょっと違う批評をされたことがある。自分にも雄雄しい激しさがあるのだろうか、否、それは恐らく“窮鼠猫を噛む”と同じ構造の怒りや闘争心だろう。だから私の尺八に「激しさ」が現れるとしたら、それは何か相当追い詰められている時ではないだろうか・・・。

 話が横道にそれてしまった。とにかく異口同音、表現に多少の差はあっても、要するに私の尺八は一長一短だと言われ続けてきたのだ。誠に仰るとおりである。しかし、メソメソと嘆き、悲しみ続けることによってのみ生まれる何か(たとえば包容力とか優しさ)の意味を、こういう時代には少し声高に言わなければならないような気がしている。

 国際紛争とは簡単に言えば、人間どうしの資源の“ぶんどり合戦”だと思う。地球の惠は増殖し過ぎた人間を養いきれないのであって、何とか自分だけは豊かに暮らしたいと思う「ヒト」と「ヒト」が激しく争うのだ。ロシアと中国はニコニコしながらお人好しの日本に戦いの準備を進めているだろう。しかし事の重大さに気づいた時、日本は“猫を噛む窮鼠”になりかねない。残念ながら軍備という腕力を持つ以外に有効な手立てが見つからないが、そういう今こそ、奪い合うことに血眼になる虚しさを、無理してでも身に染みて強く感じようと心がけるべきではないか。福島の事故はそういうことに直結しているから、私はまだまだ深く悲しみ続けなければならないと思っている。図らずも福島の事故の起こるずっと前から、私は東北の伝承曲をそういう気持ちで吹いてきた。



酒の名言集                 百錢会通信 平成23年11月号より

 先日酒にまつわる名言集の小冊子をもらい、電車の中で噴出したり、苦笑いしたり、感心したりしている。たまには息抜きの巻頭言ということで・・・

 

酒という文字を見てさえ嬉しきに、呑めという人、神か仏か。

  この気持ちは分りすぎるくらいに分る・・・土井晩翠の言だとか。


ほろ酔いの あしもと軽し 春の風 

 今年の春はそんな気分にはとてもなれなかったが・・・。でもこの句は、毎年のように 水害などの天災に苦しむ越後に暮らした良寛の作だ。


両人対酌すれば山花開く、一盃一盃複た一盃 

酒は知己に逢えば千鐘も少なし

 気のあった友人と酌み交わせば山一面に花が咲く。話は無限に広がる。表現のスケ ールの大きさにつられてこちらの心もつい調子づいてしまう名言だ。


ふところが痛いのは、最初の一杯だけである。

 この言に頷いてしまってはならないけれど・・・。名言集は酒を賛美するものばかりで あるはずがない。以下は酒飲みへの戒めであるが、比較的穏やかなものだけを選ん だ・・・。


酒には二つの欠点がある。水を加えれば味が落ち、水を加えなければ人が堕落する。

  度の高い研ぎ澄まされた酒の味わいは格別であるけれど、急激な酔いとはあまりに   刺激的な快楽だ。


大体お酒のみには二種類ありますね。酔いたい人と飲みたい人とです。

 自分は、酔いたい6割、飲みたい4割くらいだろうか・・・と言い訳したくなるが、どうも それは2つに1つしかないと断言されているようだ。


人は酔中に真実を吐く

 本心を明かすこと自体が悪いことではないだろうけれど、酔いの中では心の内を明  かすタイミングを制御できないところに問題がありそうだ。


酔中に書状を人に送るべからず。

  酔っているときほど余計な言を口走るものだから、ご尤もな忠言である。


酒は呑んでも呑まるるな

 山口五郎先生は学生時代にお母様から一度だけ、このようにお説教されたそうだ
 が、私は何回母に言われたことか・・・。

 

 酒の酔いと音楽の陶酔を、私は比べて考えてみることが多い。がしかし大きな発見があったわけではない。でも概ね共通することが多いように感じている。味の良さだけで、酔うことのない酒も音楽もつまらないが、陶酔はその質と程度を間違えるととんでもない事になりそうだ。いつの間にか年末の予定調整が始まった。これからの宴でそんなことを懇談してみたいと思っている。

 最後に1つ、妙に気に入った名言をお供えして、今月の駄文を締めくくる。

 

酔った男は神と語り合う

 



「もう持たないでしょう・・・」      百錢会通信 平成23年10月号より

 過疎の進んだ町で寺の住職を務める私の知人は、よろず何事も隠さず明け透けに思うことを仰る方だ。曰く、「こんな片田舎でも私のような者が住職として生きていけるのだから、徳川家康って人は本当に凄いと思いますね。だって檀家制度って400年も前に拵えたものですよ。そのお陰で私がこうして生きていられるんですもの。でもさすがに限界、このシステムはもう持たないでしょう・・・」

 江戸幕府が寺院と檀家制度を厳格に統制したのは、今で言う戸籍係的な役割を寺社に担わせていたのではないかと、素人考え乍ら私は推測するのである。また同時にその仏事法要を通じて檀家間の、或いは個々の家の中での序列までもが統制されて、むしろ儒教的な当時の身分制度の秩序が仏教寺院の中において、その末端にいたるまで整然と強化されていったのではないだろうか。この身分制度は明治維新で崩壊した。にもかかわらずこの檀家制度は絶えることなく、近代の大きな大きな戦争を経ても尚今も続いているのだから、これほど日本人に浸透力のある仕組みに眼をつけた家康の慧眼には驚かずにはいられない、というわけだ。ところが、だ。それも「もう持たないでしょう・・・」と彼は言うのである。現場の生々しい発言だと私は感じた。

 古典芸能の世界は礼儀を重んじるといわれる。否、古典に限らず日本の芸能の世界は皆そうだろう。滅多に縁はないが、まれに歌謡界の仕事を手伝ってみたりすると、楽屋の礼儀作法は現在の箏、三味線、尺八の世界に比べて遥かに厳しい。またその通路にはちょっとコワそうな人相の人たちが沢山出入りしているが、その人達の世界はまた一段と厳しい作法があるようだ。檀家制度以外にも、江戸時代の身分社会の中で編み出された様々な作法、制度は今の日本の社会のあちこちに残っている。しかしこれももう「持たないだろう・・・」と私は思う。19世紀に世界に圧倒的な力で広まった欧米的な経済の仕組みを受け入れて100年余り。日本的伝統との融和による芳しい成果は生まれなかったと思うからだ。

 世界経済のスタンダードとなっている資本主義というシステムは、キリスト教と深い関わりがあるそうだ。神による救済と勤勉に働くということの意味、神の前に人間は平等であること、契約という思想。このマックスウェーバーの説には色々な批判もあるようだが、いずれにしろこの経済の仕組みに一神教の背景があったことに疑いはないと思う。しかるに現代の世界の経済界に本当に神が生きているのかというと、とても疑わしい・・・。滑稽なのは、天照大神や八幡神を背中に背負った日本の極道世界までもがこの仕組みの中で「金」を熱心に追い続けていることだ。その姿は正に勤勉というに相応しいのかも知れない。

「武士は食わねど高楊枝」なんて言葉は死語だ。日本が鎌倉時代から400年、やっと作り上げた武家社会の秩序は、400年を経て今その幕を引こうとしているように思われてならない。世界中は「金」に向かって血眼になっている。次の社会の善き秩序をどうやって作るかを思うと暗澹たる気持ちになるけれど、これはどこまでも表層的な話である。私には尺八を吹くということがその表層に対する膨大な内面の世界に直結しているという感覚がある。だから「もう持たない・・・」という述懐には確かに一抹の寂しさを禁じえないが、これから数多の困難が予想されても、未来への希望は消えることがないのだ。

 



追憶の宝庫                 百錢会通信 平成23年9月号より

土壁に茅葺き屋根の昔の民家が涼しいのに驚いた。先日、実家の狛江市にある民家園での催しに尺八の演奏で参加することとなり、リハーサルのために会場入りした時の第一印象だ。実際に壁を触ってみたが本当にヒンヤリとしていた。屋根に触れることは出来なかったけれど、天井からも冷気が降りてくるように感じられた。外のアスファルト道路は一分も歩けば滝の汗をかくような猛暑なのにも拘らず、この涼しさはちょっと嬉しくなる驚きだった。昼食のお弁当を頂く時には穏やかな風が通り、日本家屋の魅力を束の間味わった。

催しとは、俳人山頭火との生活をその妻が語るという設定の一人芝居で、役者の台詞の背景で私は時折尺八を流すのである。暗い暗い闇を背負って放浪する常軌を逸した俳人と共に生きた妻の述懐である。台詞のどこを拾っても胸かきむしられるような悲しみが込み上げて来るから、うっかり聞き入ってしまえば出番を忘れそうになる。また尺八を吹いている時も油断をしてのめり込んでしまうと、吹きながら思わずこちらが嗚咽しそうになってしまう。平常心を保つのにちょっと苦労させられた・・・。

2時間はかかるという大作で、午後の3時と6時の2回公演である。1回目の終わった頃から日が翳り始める。いつの間にか日も短くなっていたのが妙にしみじみと感じられた。30分もすればすぐに2回目の公演の開場であるから、私は虚無僧の装束をつけたままにして、縁側でボーっと開演を待つことにした。客席からは庭の景色も眺められるようにしてあるので襖は開け放しで、座敷のあちこちに蚊取り線香が焚かれている。叢から聞こえる虫の声と、昼間の光から夜に移り変わる微妙な明かりに包まれた時、何か映画の一場面のように私の心は突然幼少期にタイムスリップしてしまった。昔から慣れ親しんだ多摩川のほとりである。眼に映るもの、耳に聞こえるもの、肌に触れる空気とその匂い、何もかもが瑞々しく感じられた。幼少期はたとえるなら王国の富、追憶の宝庫といった詩人がいたが、まさしくそうだと思い、既に緩んでいた涙腺から先ほどとは少し違うぬくもりの涙が溢れてきた。

別に誰もが出会うであろう、他愛もない感傷だとは思う。ただ福島の事故以来(否それ以前からかも知れない)、恵み豊かなこの日本が本当にほころび始めてしまったように思われてならないので、恥ずかしさをこらえて自分のセンチメンタリズムを表すものだ。土壁に茅葺き屋根の家にこれからみんなで住もう、なんてことは無理なのは良く解っている。けれども、日本らしい、人間らしい暮らしは、追憶の中だけで良いのかという気持ちも強く突き上げてくるので、そのジレンマに悩まされるのである。



老いる覚悟                 百錢会通信 平成23年8月号より

小泉改革の一つの“成果”であろうか、私の住む所沢も近隣の個人営業の店は軒並み閉店。だから買い物は大型スーパーに車で乗り付けて、日常雑貨から食料品まで一度にまとめてすることが当たり前になってきた。荷物の量が多いから車に運び込むのも一仕事で、世のお父さん同伴の買い物姿が多くなったのは、その腕っぷしの強さを買われてのことではないかと想像している。

若い夫婦が重たいペットボトルをごっそり買い込んでいる横で、老夫婦がゆっくり歩いているのを見ると複雑な思いになる。私がまだ見たこともない「買い物難民」に思いをいたす瞬間だ。

野菜売り場を見るとやはり産地によってはまるで売れ行きが悪い。放射能汚染を恐れてのことだ。この手の話になると必ず皆が口にする台詞は「惜しげもない我々中高年がせっせと食べればいいんだ!」というものだ。こういう会話を交わす時に私もそのグループの仲間入りしているつもりでいると「君はまだ早い・・・くもないか・・・、まぁ微妙なところだな。」と気遣って下さる先輩もいたりする。

老いるということを、少しずつだけれども考えるようになってきた。30代の時には40代の先輩に体力低下の加速を脅かされ、40代になれば50代の人から病気の兆しについて脅かされ、さて50代になったら、今度は何を話のネタに脅かされるのだろう・・・。いよいよ老いていく覚悟といったことが話題になるのだろうか。否、そういうことを人間はなかなか口にすることは出来ないだろう。スーパーマーケットで買い物をする人間の目つきを見てそう思う。「何か美味そうなものはないかな・・・」腹を空かした私も売り場で、さぞや爛々とした眼差しで食材を物色しているに違いない。そんなことをつらつら思っていたところにびっくりするようなエッセイに出会ったので抜書きしておきたい。佐藤愛子という人の一文だ。

 

-おしゃれをするのも面倒くさい。だから出不精になる。するとソレソレ、それがいけないのよ、それじゃ老い込んでしまいます、と説教される。老い込むのが何が悪い、と私は怒りたくなる。老い込むことが私の自然であればそれに従えばよいではないか。かつて老人が老後の幸福として願ったことは心の平安ではなかったか。

-今は欲望の充足が幸福だという思い決めが横溢している時代である。欲望は人間に活力を与えるもとであるから、欲望を盛んにするのがよいと多くの人が思っている。そう思うようになったのはマスコミが商業主義のお先棒を担いだためにちがいない。快楽は幸福であるという思い込みが価値観の混乱を招き、諦念や我慢は恰も悪徳ですらあるかのようだ。

-老人の人生経験は今は後輩たちに何の役にも立たない時代だ。人生の先輩として教えるものは何もなく、従って老人に払われた敬意はカケラもない。あるのはただ形式的な同情ばかりだ。そんな時代に老後を迎える私がこれから心がけねばならぬことは、いかに老後の孤独に耐えるかの修行である。若い世代に理解や同情を求めて「可愛い老人」になるよりも、私は一人毅然と孤独に立つ老人になりたい。

-これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくても死なせてくれない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申し訳なさにも耐え、そのすべてを恨まず悲しまず受け入れる心構えを作っておかなければならないのである。どういう事態になろうとも悪あがきせずに死を迎えることが出来るように、これからが人生最後の修行の時である。いかに上手に枯れて、ありのままに運命を受け入れるか。楽しい老後など追及している暇は私にはない。

 

 

巷間、音楽は唯の快楽の道具となってしまった。私は尺八の古典本曲を通じて小学生の頃からそう言うことの無きようにと言い聞かせ続けられてきたはずだが、たいして血肉にはならなかった。だから先の一文についてはもう少し穏やかな覚悟はないものかとつい思ってしまう。けれど彼女の濁りない言葉に私の買い物噺の感傷など一瞬に蹴散らされてしまうような思いがしたので、ちょっと心に刻んでおこうと思ったのだ。

 



折れ線グラフ                百錢会通信 平成23年7月号より

たまに20代の若い尺八家の演奏を聞くと妙に切ない気持ちになる。その理由ははっきりとしている。何を吹いても板につかないというか、何か様にならないもどかしさに悩んでいた、自分の昔を思い出すからだ。

私たちの20代の頃に比べると、今は格段に技術的な水準は上がっていると思う。しかし、どんなに技術が向上しても、精神的な奥行きとか拡がりを感じさせる音と言うものだけは、そう簡単に出せるものではない。類稀なる天才は別として、我々一般人にあってはそれ相応の時間がかかるものだ。様々な経験が心の闇の中で熟成されて、それが溢れるように音となって白日の下に姿を現すまでには、1年や2年では到底足りないのだ。そして尺八は他の楽器に比べて、この音の拡がりの有る無しが余りにもはっきりしてしまうのではないかと感じている。

周りの親しい演奏家を見て思うのだが、だいたい40代から50代になって来て漸く、それも少しずつ、音楽が自然になってくるような気がしてならない。青年期の経験が実を成すのにその位の年月が必要なのだろう。しかし身体の機能は確実に老化が進行している。折角演奏家としての中味が自然で真実味を帯びてきたのに、テクニックは衰えてしまうのだからこれまた切ない話だが、演奏家にとっては回避できない宿命だ。心の充実と体力の衰え。向きの違う2つの折れ線グラフの狭間で、急激な衰退のないようにそれなりの鍛錬を怠らず、それでも1つ減り、2つ減りして年々限られていく技を駆使して、我々は己の音楽を実現していこうとするのだろう。

話は変わるが、最近は私の門人もキャリアを積んで、履修曲の最後にしている「無住心曲」を修了する方が増えてきた。神如道の創作による「無住心曲」を今一度丁寧に味読してみると(神如道は「作曲」という言葉の代わりに「生曲」という造語を用いた)、神如道はこの曲をこの世に生み出して、そこで初めて自身の伝承するすべての古典本曲に、ひとつの大きな統一を成し遂げたように思う。西日本の伝承と思われる「虚空」と「阿字観」を下敷きにしているのは一目瞭然であるが、安易な折衷によるリメイクなどでは決してない。身体の奥深くまで染み付いた東北の音楽の形式感と歌心がそれと深く融け合っている。曲節はどこを取り上げても、竹を吹く神如道の歓喜に満ち溢れているようだ。

私は「無住心曲」を、まさにこの曲が生まれるリアルタイムで神如道に師事していた岡崎師に習った。先日久しぶりにお会いした折りに岡崎師は、それは他愛もない一言ではあるけれど、今まで1度も話題にしなかったことを仰った。「神さんも可哀想だよなぁ・・・無住心吹いても時流には合わなかったから。」それが理由であったか分らないけれど、岡崎師は“他流試合”の献奏会では決まって「無住心曲」を吹いていた。こういう義侠心の表わし方が岡崎先生らしく、私も常々見習いたいと思っている。

音楽家は、時流という、もう1本の折れ線グラフとも向き合って生きているのだ。嘘偽りのない正真正銘の自分の音楽とそれとは、生きているうちに交わることはまず稀であるので、それもまた味わい深いことだと、改めて思い知らされた。



接 待                     百錢会通信 平成23年6月号より

 我が家の近所で小さなアパートの建設が始まった。別に珍しい光景ではないけれど、家の目の前の工事だから、今日は掘削、次はベース、基礎の仮枠、コンクリート打ち、と次々に工程の進行していく様を見ないわけには行かず、少なからず私はそれをワクワクするような気分で眺めている。それは私が高校を卒業してからの数年間、父と一緒にこうした建築や土木の現場で働いていたからだろう。一日中怒られながらヘトヘトになるまで働いて辛い毎日だったけれども、自分の労働が建造物という形になっていくのを目の当たりにするのは、理屈を抜きにして嬉しいことだった。

職工の世界では、見習いは来る日も来る日もバカだマヌケだと罵倒され続けなければならない。学校で手取り足取り親切に指導をしてもらうなんていうヤワな世界はそこには存在しない。右も左もわからない青二才がいきなり待ったなしの現場に放り出されてその場で仕事を覚えていくのだ。弟子がヘマをやらかせば直接親方の儲けに響くのだから、それはなまじの叱り方であるはずがない。そんな思い出話を知り合いの邦楽囃子の人にしたら、今でも古めかしい流派ではそんな雰囲気が残っているそうだ。入門したその日に初舞台なんてことがちょっと前にはどこでもあったらしい。「いいから俺の真似してそれらしく鼓を叩いてろ!」と。そうは言ったってまともに音が鳴るわけが無いから、そこで「バカヤロー!」となる。以前に津軽三味線の名手、初代高橋竹山のドキュメンタリー番組で聞いた言葉を思い出した。「昔の師匠なんてモンはナ、めんどう臭ぇとなんでもブン殴ったモンだ・・・」

私の短い職人時代には、もうそんな古典的な指導はなかったけれど、上棟の日の現場だけは古めかしいそういう雰囲気があった。基礎の上に柱や梁を組み立てて一気に屋根を上げて上棟式となり、晴れて施主のお振る舞いにありつけるわけだ。その日に仕事がウマくいかなければ縁起が悪いし、職人の面目は丸つぶれとなる。だから見通しがつくまでの特に午前中はどの職方も喧嘩面だ。柱が立ち仕事が2階になると大工も鳶も上に昇って、下っ端の職人は下で必要な道具と資材を運ばなければならない。梁だ筋だ位は分かっても「ネダ上げろ!」「カケヤよこせ!」などと聞いたこともない言葉で命令されてもわけが分からず右往左往していると、「日が暮れるまでに棟上できねぇだろうが!!」と怒鳴られる。「だいたい言われる前に気イ利かして持って来い!」と追い討ちだ。それでも分からないものは分からない。2階の親方はついに舌打ちして下に降りてきて自分で道具を取る。「こんなモノも知なねェのか!」と今度は殴られる。もうとにかく踏んだり蹴ったりの一日で、正に身も心もズタズタだ・・・。

そうやって夕方まで何をしているか分からぬうちに時が過ぎ、気がつくと屋根が上がっている。自分が何かの役に立ったという実感がないのに、その日の朝には無かった建物の屋根を眺めると、不思議な達成感を感じたものだった。単に私がおめでたい性格だったのかも知れない。さてその頃になると親方衆の顔に漸く笑みがこぼれる。上棟式では柱にお神酒をかけて、施主や棟梁の挨拶があって楽しい宴が始まる。「おめぇがしっかりしねぇと仕事にならねぇんだから、頼むぞオイ、まぁグッといけ!」なんて、すっかり上機嫌になった親方から酒を注がれたりする。職人一人ずつに施主からご祝儀が渡され、一層機嫌を良くしてお開きとなる。そして翌日からまたコツコツと修行の日課が繰り返されるのだ。

そんな思い出話を、酒席によく付き合ってくださるお弟子さんに話すと、「接待とは本来、そういう風に施主、つまり発注主が職人に、良い仕事をして下さい、或いは良い仕事をしてくれて有難い、という気持ちでするものでしょう」と仰ったのでハッとした。今はそれと逆のことが多過ぎる。仕事の欲しい職人が施主に接待するのが当り前の世の中になってしまったということだ。佳き時代の接待という習慣は、技術というものが本来何のためにあるべきかという問題について、人間としてあるべき態度を暗示してくれてはいないだろうか。この時代の技術とは富を売るための単なる一つの手段に成り下がってしまっていて、それは健全なことではないと私は思う。

 



新 緑 -5-                 百錢会通信 平成23年5月号より

 「とても心が疲れた時は山手線の原宿駅のベンチで休むことにしています」、と神妙な顔つきで物語する後輩がいた。何故かと尋ねると、原宿駅は山手線の外側に向かって座ると明治神宮の森の緑を眺めることができるからだという。先日珍しく次の約束の時間までに20分ほどの余裕があったので、ただベンチに座ってみるだけのために原宿駅に降りてみた。暑くも寒くもない実に清々しい日和だった。若い緑が目に眩しい。ホームが心なしか他の駅よりもこぢんまりとしていて、またいかにも戦闘体勢然としたビジネスマンの乗降が少ない所為もあるだろう、なるほど束の間心がやすらいだ。ただ、売れっ子の彼がゆっくり休む間もなく、追い詰められた時にこんなところで心の浪を鎮めていたのかと思ったら、少し可哀そうな気分になってしまった。とにかく木々の緑は有難いものだ。

 ふと思い出すのは「春望」の冒頭の一句だ。「国破れて山河あり 城春にして草木深し」 安禄山の反乱とは、単なる唐朝との政権の交代ではなく、それまでに築き上げてきた秩序とシステムが根底から覆され、まさに国が“破れて”しまったということだ。人間の社会は滅茶苦茶になってしまったけれど、山河はそのままに、草木は春を迎えて生い茂る。それ故に却って杜甫の悲しみは増してしまったのかもしれないが、それでも悠久の自然に敬虔な気持ちで向き合う限り、いつか人々の心に一縷の希望の光が差し込んで来たに違いないと思っている。

 しかし福島の問題は “国が破れる”以上の大問題だ。この惨事を前にして私は杜甫のような気持ちで自然と向き合うことはとてもできない。なぜならこれは自然そのものに向かって人間がしでかしてしまった大いなる愚行であるからだ。大地が怒りだしたのではないかという妄想にかられて仕方がない。今私が一人で岩手の松巌軒や、仙台の布袋軒、津軽の根笹派などの尺八本曲を吹く時、今まで私を育んでくれた東北の恵みに思いを馳せ、今までより一層深くその中に沈潜しようとしている。しかし福島のことを思うと、逆に自分は恩を仇で返したのだという自責の念に苛まれる。地球に申し訳ない、いくら謝ってもすまない・・・どうか大地の神様には怒りを鎮めて下さいという思いである・・・。

 自分は無力であると感じている多くの音楽家が、今自分にできることは何かと思い悩みながら音を奏でていることだろう。原宿駅に佇んで前へ進む力をもらった彼も多くのステージで祈りを捧げているに違いない。被災されて亡くなられた方、あるいは辛うじて一命を繋いでも今尚辛い日々を送られている方。そういう多くの人々に等しく幸福の訪れることを祈ることはもちろん大切である。しかし一方で、古来楽器の音が地を鎮める役を担ってきたように、その気持ちで演奏する者が現代にもっと現れてよいはずだ。今どき尺八を吹いて地の神の怒りを鎮めるなどと吹聴したら、滑稽な神秘主義者として笑われてしまうだろうが、それでもいい。現代には畏れるという気持ちがなさ過ぎると思うからだ。



寒サノ夏ハ                   百錢会通信 平成23年4月号より

 目に見えない地底の怪獣にとっては寝返りしただけの事かも知れない。海面よりほんの僅か顔を出しただけの地上に暮らす人間など、地球にとっては微生物に過ぎないことだろう。理屈でいくらそう考えようとしてもこの衝撃を受け入れることが出来ないでいる。3/11の、大きな地鳴りとともに我々を襲ったこの大惨事。その瞬間震度5強程度の揺れで大きな実害のなかった関東にいてさえ、自分の直ぐそばで地獄の釜の開いたことを感じないではいられなかった。

 警報は確実に津波が来ると報じた。何の知識も持たない私でも、尋常ではないこの断定的な警報に、何もかもが根こそぎ波にさらわれてしまうことを直観して目眩に襲われた。時を追うごとに知らされる惨状についてはもう何も語りたくはない・・・。

 天災の後には人災の報道だ。福島の原発の損傷によって、私たちの生活はなお一層ぶ厚い暗黒の雲に覆われてしまった。繰り返して言っておきたいことは、あくまでこれは人災だということだ。原子力発電の是非はかつて大いに議論されていた。ところが二酸化炭素の排出による地球温暖化を切り札に、いつの間にか日本中に原発が承認された。一度議論の灯が消えてから後は、関係者の行動に厳しいチェックはなされなかった。電力会社と経産省との癒着は想像に難くない。この国家の非常事態に際して、未だに陣頭指揮に東電のトップも官僚のトップも出てこない事実一つ挙げても自明のことだ。危機管理に何の関心も責任感もない者が組織の長に君臨して、一朝有事の際にはその責任を合法的に巧妙にすり抜ける、もっとも忌まわしい官僚的組織の実像がこれから一段と明らかにされることだろう。もっとも、この人災の責任を政・財・官にだけ押し付けようとは思わない。美しい青いこの地球に火を燃やしすぎる悪魔のような生き物は、この世に増えすぎた我々人間である。そのことの罪悪をうすうす分かってはいながら、自分のところだけにはふんだんな火力、即ち電力を確保して来た。ボタン一つで暑い夏は涼しく、寒い冬は暖かに、都に上るも名所めぐりの観光もひとっ飛びの、この快適な生活が欲しさに、たぶん原発は大丈夫だろうという誤った憶測を、間接的にも直接的にも後押ししたのは、紛れも無く我々一般大衆だと思う。

 天災と人災、黙々とこの大惨事に耐え忍ぶ東北の人々の姿には頭が下がるばかりである。かつて岩手に「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」とうたった詩人がいた。当時東北は冷害によって多くの餓死者を出したのである。その過酷な大自然の試練に打ちのめされながらも尚自然の恵みに感謝して、その身そのままに安楽の境地を見出そうとする。こういう偉大な信念を生み出した東北の精神的な土壌を目の当たりにした思いだ。この精神性をこそ、わが日本の誇りとしたいと思っている。現代の鋼鉄の文明社会にあって未だ尚、竹という自然の素朴な材を営々と受け継いで芸術を深めようとしている我々には、とてつもなくありがたい先達だ。



梅の花の香                 百錢会通信 平成23年3月号より

群馬にある私の稽古場の箕郷は、関東の中でも有数の梅の里である。東京や埼玉に比べればいくらか遅い開花だが、三月も中頃になれば山里一帯は梅の花の香に包まれる。特に夜、街灯もまばらな田舎の夜道に、花の香だけが漂って来る風情は、感傷と希望の入り混じったような、えもいわれぬ想いを催さずにはいられない。
 「なんの木の花とは知らず匂ひ哉」 これは、およそ詩歌を諳じる教養などない私が、何故か忘れない芭蕉の句だ。というよりバカの一つ覚えと言ったほうが的を射ているだろう。
『笈の小文』にある。おぼろげな学習記憶で心許ないが、伊勢神宮には当時、僧侶あるいは僧の姿をした者の立ち入りを禁じた神域があったそうだ。その塀の外に佇んでいると、内側には入れないこの身にも花の香だけは漂い来る・・・。「何事のおはしますかはしらねども忝さに涙こぼるる」という西行の短歌をふまえ、神域の神々しさを目に見えぬ花の香に託したところに、深い味わいがあると私は思う。

誠に恥ずかしい話だが、先日慌てて食事をしていて上唇の内側を派手に噛んでしまった。どんな口の動かし方をすればこんな場所を噛むことが出来るのだろうと、自分でしたことながら本当に情けなかった。口内炎や火傷の跡のように無残な傷を作ってしまい、ほんの僅かだが内側の粘膜が腫れている。ほんの僅かでもこの場所だけは傷めたら尺八は鳴らない。それもビックリするくらいに鳴らないのだ。仕方ないので唇の脇の方に風の出口を作って急場をしのいだが、思うように音を操れないことが思いのほかに重く暗い影を私の心に落とした。若い頃のように軽い事故に遭遇してしまったぐらいの気分にはなれなかったのだ。何故なら、例えば軽い脳梗塞等で指や唇に痺れが永久に残ってしまうというようなことが自分にも起こり得るということ、それをその時あまりにも強い実感として連想させられたからだ。これは年齢の所為だろう。

翌日傷口の痛みは弱まってきた。しかし恐る恐る竹を吹いてみても殆ど音は昨日と変わらない。翌々日、そのまた翌日、傷口の治癒にいつも少しだけ遅れてゆっくりと尺八の音は回復して来た。その喜びは今までに味わったことがないものだった。神如道が晩年病に倒れてしまった時、病床に伏したまま愛吹の竹を頬擦りしていたという話を父から聞いたことがあるが、この歳になって初めてその気持ちに共感した。日に日に唇の粘膜が再生されていくことがつくづく不思議で、有難いという気持ちが心の奥から滾々と湧いて来た。

 年々神社の境内の空気が好ましく感じられるようになって来たのも、これと同じ感覚だと思う。刈られてもあるいは自ら枯れても再び生い茂る草木の命の不思議に驚き喜ぶ。その清々しさに、境内に佇むと何故か包まれるような気がしてならない。草木萌える春に先駆けて漂う梅の花の香に、そんなことを想うようになった。


「生きている意味」という言葉から思うこと  百錢会通信 平成23年2月号より

「生命の泉?俺には関係ないね。永遠の命に何の意味がある」 電車の中で見付けたこのコピーは、「パイレーツ オブ カリビアン」という海賊映画の宣伝ポスターに書かれていたものだ。恐らくはこの映画の主役の台詞なのだろう。「命の意味」という一言が何故か脳裡から離れなかった。
 現代は猫も杓子も命は尊いと簡単に言う。けれど何故に尊いのかと問えば誰も簡単には答えられないだろう。この映画を見ていないから的外れの推測かも知れないが、先のようなニヒルな台詞をダーティなヒーローに言わせるのは、逆説的に命の意味を問いかけようとしているのではないかと想像している。
 “生きていることの意味”なんて深刻なテーマを大上段に構えて論じるのは、決して私の好むところではないけれど、『夜と霧』という書物をとても感慨深く読んで(へそまがりの私には珍しいことだ・・・)、以来「生きる」という言葉に対しては余り斜に構えることはなくなったと思う。
 この『夜と霧』については今までに何度か話題にしたが、何が書かれているかということを改めて要約しておこう。これは、ユダヤ人心理学者ヴィクトール・フランクルが、アウシュビッツに収容されてから奇蹟的に生存して解放を迎えるまでの、人間観察の実録なのである。捕らえたユダヤ人を、金品ばかりでなくその肉体から労働力までも搾取した後にこの世から抹消させるという、冷徹に計画されたナチスドイツのプログラムが明かされる。収容された人々はまずその思考回路から自殺という言葉すら無くなるほどに、徹底的に人間性が否定される。そしておぼろげな生存本能をわずかに留めるだけの無感覚な肉の塊と化した所で、最後の最後まで労働力を搾り取るのだ。搾取するべき何物も認められなくなった時点でガス室へ送り込む。「人の屠殺場」とも言うべきおぞましいこの収容所の中で、フランクルは最愛の妻を亡くしている。

絶望によって免疫抵抗力を著しく失い、しかも劣悪極まりない衛生環境の中でどういう人間が生き残ることが出来たのか。最終最後まで生き残ることが出来たのは、運が良いとか体が並外れて丈夫だったとかではなく、信仰を捨てなかった人間だったというのだ。クリスマスには救われる、そういう根も葉もない噂が流れてしかし結局は何も起こらなかった。クリスマスが過ぎる度に驚くほどの数の収容者が倒れていった。残った人々には依然として人間性を剥奪された只の肉の塊として存在する時間が流れるばかりである。しかしかかる極限の不幸の中にあっても自分には「生きている意味」があると、フランクルは信じて止まなかった。一体どこからその気持ちが湧き上がってくるのかは分らない。が、とにかくその信じる心が肉体の最後の免疫力を支えたのだと。私はキリスト教という宗教がヨーロッパに何故生まれたのかという理由の一端をここに見た思いがした。日本では想像も出来ないような、殺戮と略奪と陵辱を繰り返したヨーロッパの歴史の中に、信仰だけをよすがにたくましく生き残ったこうした人々が現れ、多くの弱者が共感したのだと思う。

 長々と私がこんなことを何故述べるかというと、それは私自身が持っている日本的な信仰心と、ヨーロッパのそれとはおよそ異質のものだと驚愕させられたからだ。自然界の営みに身を委ね「死ぬるときは死ぬるがよきそうろう」なんていう長閑な言葉を聞いて私は育った。私はそれにそこはかとない幸福を今も感じている。豊かな自然の恵みに感謝するという感情にやがて「無」という思想が流れ込み、明暗二元の対立を超越し自然の根源と一体となろうとする、そういう試みが日本に起こった。厳しい修行であってもそれは元より悦びから始まっているような気がしてならない。尺八の愛好家の中には、そういうことを心に秘めて一心に吹いている人も多いことだ。だから息を深く吸って吐くだけの一音の中に、味わいが尽きないのだと思う。

 坐禅は大地にしっかりと腰を据え、背筋は天を貫くように、大きく坐れと教わる。ところがロダンの彫刻「考える人」はまるで違う姿勢だ。あんな姿勢で正しい思索の出来るはずがないと我々は簡単に言ってはいけないと思う。苦悩に満ちた「考える人」の眼下には我々が見たこともない地獄が広がっているからだ。芸術は世界の共通語などと容易く言うものでない。けれどもその認識から何かが始まるかも知れないと思う。



春の海                      百錢会通信 平成23年1月号より

 我々が子供の頃に聞いた童歌など、どれを聞かせても知らないと言う今時の大学生に「春の海」を聞かせると、「あっ、お正月に流れる音楽だ!」という返事が返って来た。この曲が邦楽の中で群を抜いて知名度の高い一曲であることに疑いの余地はない。
 曲解説のトークでいつも挟む一つ噺は、この曲のお陰で一体幾人の尺八吹きの生活が潤ったことだろうということだ。この一曲があったればこそ、尺八の箏曲との連携は決定的となったのであり、後世尺八吹きの演奏の場が飛躍的に広がったのは、ここに端を発すると言っても過言ではないと思っている。そういう訳だから「春の海」を吹いたことのないプロは皆無だろう。私も数えきれない程に吹いて来た。けれど、実を言えばこれ程苦手意識の募る曲もないのである。
 尺八の音程の狂いやすいフレーズが沢山ある。それから尺八を鳴らしやすいように吹く時に起こりがちな音量や音色のばらつきをある程度制御しなければならない。そうした技術は尺八の場合かなり高度なものであるのに、この「春の海」においては、それがやけに初歩的な技術不足のように聞こえてしまうから、とにかく厄介なシロモノだ。
 私の場合はそれに加えてもう一つ大きな問題があった。ある評論家先生の前で「春の海」を吹いた時、「この曲に貴方のようなメリハリの濃い表現は相応しくない」と、短い言葉でピシャリとやられた。「メリハリの濃い」とはまだ穏やかな表現で、単刀直入に言えば「くどい」とか「ひつこい」ということだ。これは誠に尤もなご指摘なのだが、ちょっとやそっとでそれは治せるものではないことが、私には痛い程に分かっていたから、頭を抱えたものだった。田舎に生まれ育って二十年余り余所には出たことのない者が、初めて都会に放り出されてさぁ標準語をしゃべって見なさい・・・、簡単に言えばそんな状況と同じようなものだ。
 ある友人から聞いたこんなエピソードを今ふと思い出した。彼の知り合いに長くフランスに暮らしていた兄弟がいて、ある時その兄弟が友人の前で、些細なことから発作的に喧嘩を始めてしまったそうだ。興味深かったのはその兄弟は日本人であるのになんとフランス語で罵りあっていたということだ。私の友人は、彼らのフランス語は本物だとその時つくづく感じたという。
 最も激しい感情、あるいは最も本質的な内面を表すことの出来る言葉とは、単語と文法を入れ換えれば翻訳も簡単といった具合のお手軽な道具ではなくて、言葉そのものが一つの思想であり、膨大な歴史であり、その結晶としての一つの人格を備えているのだと思う。音楽にも全く同じ様な意味での言語あるいは語法というものがあって、つまり新しい音楽的語法を身につけるということは、新しい思想を我が身の血肉にしようとすることにほかならない。当然拒絶反応は起こり、場合によっては生命の危機を迎えることさえある。とても重い、危険な試みなのだ。だからこそ、それはとりわけ慎重に、長い年月をかけるべきだと思う。尤も本質的な表現を必要としない人にとってはそんな深刻な事態とは無縁な訳で、今日はフランス、明日はイタリーといった具合に、上着を取り替えるようにファッションを楽しめばいい。
 私はあと何回、正月のお飾りをくぐれば「春の海」を吹けるようになるだろうか・・・。そうつぶやきながら新春を迎えること久しい。



反対語                      百錢会通信 平成22年12月号より

 和歌を趣味とするある財界人の口癖の話は、以前にも話題にしたことがあったかと思う。彼の詩歌論は誠に明快で、私の好みの一つ噺だ。「良い歌とは平易にして奥行きがあるものだ」という。そして「僕の詠む歌は平易ではあるけれど奥行きがないんだよねぇ…」と結んで、周囲を和ませるそうだ。財界人らしいユーモアも私には好ましく感じられたものだった。

 平易と難解、奥行きの浅深。この二つの基準を組み合わせれば四つの分類が出来上がる。そしてこの分類にもしも順位をつけるとしたら、最も良とされるのはもちろん、先の「平易にして奥行きあり」となり、そして最下位は「難解にして奥行きもなし」となる訳だ。問題は「平易なれども奥行きはなし」と「難解なれども奥行き深し」のどちらを優位とするかだ。つまり平易であることと奥行きの深さのどちらに重きを置くかという選択だが、ここは意見の別れるところだろう。私なら奥行きに軍配を挙げたい。

 なぜそんな噺を思い出したかというと、先日ある演奏会の打ち上げの席で、主催者と次のような会話を交わしたからだ。私がその日に共演させて頂いた絃方の演奏者に対して彼は大いなる賛辞を表した。「彼の芸は、その性格の真面目さの中に色気が備わっているから素晴らしいのです。」と。その主催者は、芝居というものに軸足を据えた視点から、日本の芸能には誠に精通された方だったので、私は興味深くその言葉の意味を受け止めた。

 真面目と不真面目、色艶のあるなし。そんなキーワードを聞いて私は例の四つの分類を思ったのだ。最良は「真面目で色気がある」で、最下位は「不真面目で色気もない」。ならば「真面目で色気はない」と「不真面目だが色気がある」はどちらを良しとするか・・・。これは先の「平易と奥行き」対決より難しい選択だと思った。

 否、難しいというより、私の問題の整理の仕方がちょっと変なのではないかと感じ始めた。何故なら世の一般の趣味としてはむしろ「不真面目で色っぽい」の方が「真面目で色気がある」より好まれる事が多いではないか。そもそも「真面目」と「色気」とはそのお互いがそれぞれ反対語としての意味合いを滲ませてはいないだろうか。だとすれば「真面目で色気がある」はそれ自体が矛盾となってしまう…。

 明快だと信じ込んでいた、この四つの分類の論理性が、がらがらと音をたてて壊れしまった。文系の頭が拵えるロジックなんてこの程度のものだと苦笑させられた。この話題は、相反する二つの感覚を、ある種の超越的な一つの空間の中に感得しようとする、むしろ宗教的なテーマとして、とりあえず心の書棚にしまっておこうと思った。

 ところが主催者の演説は更に続く。「これからの彼に私が望むことはね、真面目なのに色気がある、ではなくて、色っぽいのに真面目だ、そういう姿なんですよ!」 その時はなるほどと合点して膝を叩いたのだが、それは単に私の酔った勢いだろう。今思い返すと中々難解だ。否、こういう科白こそ「平易にして奥行きのある」とすべきなのだろうか…。

 慣れない秋の演奏ラッシュに翻弄された私の頭の回路はいよいよ壊れ始めたみたいだから、思索の背伸びはもう止めにしよう…。二度目の苦笑だ。



秘密の扉                    百錢会通信 平成22年11月号より

 「母さんの歌」を中学生の合唱で聞いて、痛く感激した。次の出番待ちで、舞台の袖でそれを聞いていたら、思わず熱いものが込み上げて来てしまったものだから、いざ自分の本番で鼻水が収まらず、往生してしまった…。

 “母さんが夜なべをして…”という、あまりに有名な歌だ。題材がしみじみとしていて、旋律が綺麗だ。なのに私は今までこの曲に興味を持ったことが無い。正確に言えば何度も繰り返して聞くうちにだんだん嫌気が差してきていたのだ。

 故郷そして母に思いを馳せよ!という、聞かせる側の啓蒙的な意図を深読みした所為だろうか。もとから曲がったヘソがいよいよそっぽを向いてしまったのだ。またこれも私だけの思い込みなのかも知れないけれど、テレビやラジオで聞くこの歌は、プロの芝居気が却って仇となってしまっているように思う。どうせやるなら森進一の「おふくろさん」ぐらいに徹底したリメイクでないと難しいのではないだろうか。

 そもそも演奏とは、それがプロであろうがアマチュアであろうが、演技に違いないだろう。芝居と同様、作り事の世界なのだ。ところがそれがただの作り事でなくなる事があるから興味は尽きないのである。「真実は虚構の中にのみ存在する」なんていう小難しいフレーズもこんな所から生まれてくるのだろう。

 昔ある先生がこんなことを仰ったことがある。呼吸の限界に挑みその苦しさによく堪えながら、必死に息を支えている姿にお客様は感動するのだと。私には到底受け入れることの出来ない教えだった。ある時先生自らそれを忠実に実行する演奏を聞いて、案の定悲しいほどに興が醒めていったのを、私は今でもよく覚えている。種明かしを聞いてから手品を観ているようなものだから仕方ないのかも知れないが、種明かしをされて白けるなら所詮その程度のものだろう。下手な芝居はするものじゃないと思った。

 容易いことではないのだ。作り事が作り事を超えて行くということは。その扉を開く鍵は何処にあるのか?何度も舞台に立って、わかったような気になる時もあるが、結局わからなくなる…。

 その時、中学生女子の天から授かった清澄な声は、奇を衒うことなく滑らかにハーモニーを進行させた。シンプルな編曲も功を奏したのかも知れない。拙くとも折り目正しく音楽のルールを守ることに徹していたように思う。ただそれだけなのに、否、それ故に…なのだろうか、母と故郷を恋うる気持ちと、それから彼女達自身は未だ実感が湧かないであろう、それは薄暮の中で感じるような後悔の念までをも、聴衆の心に喚起させたのである。本当に秘密の扉は何処で開かれるかわからないものだ。



尊敬されるための競争         百錢会通信 平成22年10月号より

 昔、何かの興業に揉め事があって、当時武闘派で名の知れた親分さんが出張って行ったそうだ。ところが話し合いは一向に埒が明かず、そこで件の親分さんは話を打ち切り黙ってポケットに手を入れた。と途端に青ざめた相手は「わ、わかった…、」と、あっという間にけりがついてしまったという。本当にその場で撃ち殺されてしまうと思ったからだ。ところが実際は親分さんのポケットに拳銃はなかったのだそうだ。

 政治の世界でハッタリは日常茶飯事、起こっているのだろう。脅しばかりでなく、騙しもあるから、狐と狸と猛獣が入り乱れている。増してや舞台が国際政治となれば魑魅魍魎の千両役者が出揃うことだろう。中国は尖閣諸島が沖縄県下だともともとは認めていた。ところがその領海に豊富な地下資源が見つかると掌返して自分のものだと言い始める。こんな無茶苦茶を言い出すのは、中国にとって日本などは赤子の手をひねるようなもの、所詮喧嘩の相手ではないと思っているからだろう。アメリカは恐らく介入してこない。日本は今も尚、敗戦国であり続けているということを実感せざるを得ない。

 「地球の資源には限りがある。しかるに人間の欲望は無限である」とは有名な経済学者の言葉だそうだが、蓋し名言だと思う。限りある資源を、無限の欲望に呑み込まれたヒトという化け物が奪い合う。2度も大きな世界戦争を経験しながらまだ国家間のパワーゲームは終わらない。国益とは何とも白々しい言葉だと思う。国家の利益と言えば何でも美化されると思ったら大間違いだ。なんのことはない、欲望に取り憑かれた亡者の幻影に過ぎないのだ。貪るためだけの争いは未来永劫に続くのだろう。同じ欲望なら、せめて世界各国から尊敬されたいという“欲”を持つのは無理なのだろうか。私はそういう競い合いをしたいと思う。

 人間はどんな綺麗ごとを言ったって欲望からは逃れられないのだということと、そのために人間は自らが苦しみの海に沈んでしまうということは、世界中の人々が身に染みて感じて来たことで、その為に苦心してそれぞれの宗教や文化を生み出してきたのだと思う。その中にあって、日本の芸術の立場から発言すれば、簡素、質素であること、つまり過剰に求めないということに、美という魅力的な付加価値を与えた我々日本の伝統は誇らしいことだと思っている。

 ドイツのヒトラーが虐殺したボヘミアンの数は600万人と言われるが、毛沢東が粛清した自国民は桁違いで数千万人だそうだ。恐らく人類の殺人史上における最高峰に違いない。チベットを初め、周辺少数民族に対する謀殺も推して知るべしである。これが過剰な欲望でなくて何であろう。紫禁城前の広場から毛沢東の肖像画が本当の意味において外されない限り、少なくとも中国に世界からの尊敬は有り得ないと思っている。変わりに次の権力の亡者の肖像画が掲げられるのでは意味が無い。

 話は変わるが、核の査察でもっとも厳しいチェックを受けるのは、北朝鮮でもイランでもなく日本だそうだ。世界が日本を恐れるのは、その高い技術力だけではなく、もし日本がそれを行使したらということを想像する時に、その精神的なバックボーンには何が秘められているか計り知れないという、一種の畏れみたいなものが、欧米諸国の無意識の中に今尚あるからではないだろうか。日本人は表向き目出度いお人好しで今のところ安全だが、いざとなると何をしでかすか分らないと恐れられているとしたら、たとえば中曽根元首相あたりに「ここまで来たら、日本は核を真剣に考えざるを得ない・・・」などと発言させたら、先の空ポケットの拳銃にはならないだろうか。もちろん本当はそんな話題は口にしたくない。競争ならせめて尊敬の奪い合いにしたい。我々日本人は先達の遺産を大事にする限り、その競争においてはかなり有利だと思う。



打ち上げ                     百錢会通信 平成22年9月号より 

 藤井昭子さんのリサイタルに初めて出演させていただいたのは、もう十数年も前のことだ。会場はオープンしてまだ間もない紀尾井ホール。藤井家といえば地歌箏曲界の名門だから、客席にはもちろん大御所が溢れかえる演奏会である。勢揃いの大先生の前でなど吹いたこともない一“平民”の私は、まるで死刑台に登るような気分だった。吹きながら本当に軽い目眩が何度もして、どんな風に吹いたか全く記憶にない。でも何とか死なずには済んだ・・・。終演後は向かいのホテルで美味しい和食をご馳走になってしまったが、今は亡き人間国宝の藤井久仁江先生も同席されていて、お酒を頂いても緊張が解けなかったことはよく覚えている。

 久仁江先生はその席で、「私たちの頃は、演奏会の日に打ち上げなんていう習慣はなかったわねぇ」と仰っていた。演奏が終わればさっさと身支度して左様ならというわけで、それはあっさりとしたものだったそうだ。それに引き換え我々はどうだろう。良くも悪くも必ずといって良いくらい乾杯をして騒いでいる。翌朝までなんてこともたまにある。舞台の余韻を味わうなんて風情はすっ飛んでしまうし、体にも良くないし、今先生の言葉を思い出して少し反省している。

 先日、あるお茶の先生に、「茶事の別れって、いいものですよ」というお言葉を頂き、ハッとした。「別れ」という言葉の風情からはおよそ離れた今の生活に気付かされたのだ。閉められた襖の向こうの客人に対する黙礼、余情を残す茶室の佇まい、帰路につく客人の心の内を想う時。今の邦楽の演奏会には、演者にも観客にもこういう素敵な情緒が失われて来てはいないだろうか。「別れ」という一言に、大いに考えさせられた。

 演奏の良し悪しに関わらず、懸命に取り組んだ仲間とは離れがたいものだ。いつまでも手を取り合って語り合いたいものだが、別れの作法次第でその思いは却って何倍にも深くなるのだろう。私はこういうことがとても下手だ。つい未練に流されてしまう・・・。

 けれども少しは言い訳もしたい。我々のような未熟者は力がないだけに、いつも舞台は火事場の馬鹿力だけで乗り越えて来たような気がする。こういう精神状態のリセットは意外に難しく、巧く処理しないと妙な恐怖心が少しずつ蓄積しかねないのだ。こういう危険な舞台を迎えないために年月をかけた修行が必要なのだけれど、修行の足りないうちはこういう“荒療治”もたまには赦して頂きたい。



座 標                 百錢会通信 平成22年8月号より

                              

 3年前から夏に長野県の小海町というところで演奏をさせて頂いている。八ヶ岳の麓にあるとても清々しいところで、毎年訪ねるのを楽しみにしている。

 佐久と清里のちょうど中程にあって、これらを結ぶ鉄道は我々が学生の頃から行楽で人気の高いローカル線だ。だが、およそ若者らしいレジャー等に縁のなかった私は、小海町どころか清里すらどこにあるのかよく知らなかった。演奏会場に持参する小道具が多いので車で行くのが得策だから、必要に迫られて3年前に初めて私は小海町の場所を地図で調べたのだ。

 近頃“調べモノ”は何といってもインターネットだ。住所を入力すれば一瞬にして周辺地図が画面に現れる。ところが私のように小海町がどこに在るのかも知らない者には、会場の周辺図だけあっても役には立たない。先ずは私の住んでいる所沢と小海町がどういう位置関係にあるかを見渡せる広域図を見なければ、事は始まらないというものだ。これもボタン一つで地図の縮尺はあっと言う間に切り替わる。

 この時、唐突だが私は何年も前に会員の坪井さんと交わしたある会話を思い出した。高校で理数系のどういう授業を選択したかという話題だった。私は理数系がとても苦手で大学進学のつもりもまるで無かったから、文系重視のコースを選択した。文系コースで履修しなければならない理数系の科目は「生物」「地学」などで、難しい「数学Ⅲ」や「物理」は勉強しなくても良かった。坪井さんはそれを聞いて首をかしげた。

 「可笑しいですね・・・、「生物」を知るには「化学」が必要で、「化学」を知るには「物理」が必要。「物理」を知るには「数学」が必要なのに・・・。」なるほど仰る通りだとつくづく感心したものだった。

 小海町にたどり着くには、いかなる人も然るべきルートを経なければならないけれど、我々が“体験入門”してきた知識の世界には、随分といい加減な飛躍が繰り返されていると言わなくてはならないだろう。「物理」に一度も触れたことも無いのに「生物」でミトコンドリアを習って分ったような気になっているのは、小海町が何県にあるのかも知らずに、周辺図を手にして所沢から車で行けるような気になっているのに等しい。

 尺八の譜に表された、極めて表面的な運指と曖昧な表記のリズムをなぞるだけで師範の免状を取得した人は、斯界に数え切れない。そのことに疑問を持って尚研究努力する人がアマチュアの尺八界に多いのは喜ばしいことだ。自分がどの座標にあるのか、その位置を知るということはとても大事なことだ。自分の立っている座標を真面目に知ろうとするアマチュアの良心がプロを健全に鍛えるのだと思う。しかしこういう真面目な良心の持ち主の中に、何か得体の知れない“無限否定的”な迷路に陥りやすい人の多いことも私は実感している。数学から生物学まで修めた優れた科学者でも、数学の基礎に西洋哲学があって・・・という具合にその無限の広がりを深刻に受け止めるなら、眩暈を起こしてしまうはずだ。現にそうして発狂してしまった学者も世に多いことだろう。難問に立ち向かうには同志、仲間と笑顔で語らい休む時間も必要だと思う。夏の浴衣会を終えて、小海町の準備をしながら、そんなことを思った。

 



静かということ                    百錢会通信 平成22年7月号より

 泳ぐのが好きだ。水の中にぷかぷか体が浮いている感覚が楽しい。肺を大いに伸縮させるせいだろうか、かなりくたびれていても泳いだ後は不思議と尺八が楽に吹ける。運動不足解消にもなる。良い事ずくめなので、あまり頻繁ではないけれど、休みがあれば私はよくプールに行く。

 子供のころに水泳といえば夏に限ったものだったけれど、近頃プールはどこでも屋内で一年中泳ぐことが出来るようになった。小学生の頃、海開きならぬプール開きなんて言葉があったのを懐かしく思い出す。野外だから雨の日の水泳の授業はもちろん中止。でも夏の頃だから泳いでいる最中ににわか雨の降り出すことはよくあった。しかもかなり激しい雨だ。雷は落ちないだろうか、唇を青くして震えている子供はいないだろうか、授業を中断するか否か、心配顔の先生の心を余所に、私はこのささやかな天変地異には心を妙に高ぶらせていたものだ。

 ある時それは激しい雨に見舞われたことがある。先生の声を聞くのも難しいくらいの吹き降りだった。私はこの時ふと他愛も無い遊びを思いついた。どしゃ降りの最中に水に潜ったり頭を出したりを繰り返すのだ。水の中はなんと静かなことだろう! 私は驚きを通り越して言葉にならない深い感激をおぼえた。

 今私の手元に「求めない」という本がある。その中に似たような話があったので一節を紹介する。

 

求めない ―

すると 静かだ。

 

あるとき私は バリ島の海で浮いていて

スコールに出くわした ―

 

すさまじい水面にいるのが苦しくて その下のサンゴ礁に潜った。

そのときの私はなにも求めなかった サンゴもサカナもさがさなかったんだ。

するとそこに静寂と美の世界があった!

 

ただね、じきに浮きあがったのさ ―  息がつづかないんだ。

じっさい人間は 意識というサワガシイ水面に生きる存在でね、

「求めない」ものの国には長くいられないのさ。

 

面白いことに酸素ボンベをつけて潜る連中は

見つけることばかり求めて 求めない静かさや美は 感じないんだ。

どんなに深い海に潜ったって 「求める意識」でいるのなら 見えないんだ。


 

 筆者の加島祥造という人を教えて下さったのは、鎌倉で静かな宿をなさっているそれは美しい女将さんだ。私が一人でダイニングから江ノ島の綺麗な夕日を眺めていたら、コーヒーを出して下さり、話の脈絡は忘れてしまったけれど加島氏がその宿の常連さんだということを話して下さった。私の尺八を聴くと何となく加島さんのことを思い出します、と仰った。それはこの上なく静かな時間だった。

 



筒を口に当ててみれば・・・      百錢会通信 平成22年6月号より

 私は食器にはあまり凝る性質ではない。年がら年中お腹をすかして、早く食べたいという気持ちの方が勝っているからだと思う。ところが酒器となると、いくらか注文をつけたくなる。紙コップでビールは飲みたくない、清酒は白磁でいきたい、ワインは薄手のグラスがいい、ウイスキーのロックグラスは小ぶりのものが好きだ・・・等々。何で飲んだって中味に変わりはないじゃないかという気もするが、いざとなるとどうも酒だけは出来れば好みの器にしたくなる。

 先日、かなりウルサイ日本酒通の集まる店に招待していただいた。我々一行は実は余り日本酒に馴染みの無い若い女の子が中心のグループだったので、利き酒のナントカいう資格を持つ店主の、それはマニアックなレクチャーを頂きながらの宴席となった。通に人気の高い珍しい逸品が出された時は、全員に飲み方の指示が出された。まず真水で口の中をさっぱりさせなさいと。次に酒を口に含んだら舌の中央に乗せて口中の空気に香気を充分に立ち昇らせる。そしてゆっくり喉を通過させた時に鼻に抜けるその香を楽しむのだそうだ。命令に従って盃を傾けるのはいささか堅苦しさを感じて窮屈だったが、なるほど美味しかった。喉に刺すような刺激は全くない。酒の甘味を追いかけるように立ち上る香は誠に上品で、それは控えめな香木のそれのようだった。

 一口ずつ何種類もの銘酒を頂き、さながらカルチャーセンターの利き酒勉強会のようだった。若い女の子が店主に「このお酒は甘口ですよね?」と訊ねた。すると店主はしたりとばかりにニンマリと笑って「糖度という意味での甘口の酒はウチには置いてません。そのお酒は酸味や苦味が少ないのであって、甘いと感じるのはその香りの所為です。」と答えた。レクチャーは次第に盛り上がって行く。甘いか辛いかということに関して実験が始まった。同じお酒を違う器で飲み比べてみようというのだ。吸い口の平たい茶碗と、通称フルート型という細長い筒型のグラスみたいなもので飲み分けてみると、後者の方がとても軽い甘さが際立って、前者ので頂くとやけに辛く、まるで別の銘柄のように感じてしまうのだ。隣の女の子は眼を丸くしてマジックでも見たような顔をしていた。

 店主の種あかしはこうだ。人は吸い口の細い器を口にすると、何故か唇を細めてしまう。そしてこの“おちょぼ口”にして酒を飲むと、これまた何故か口の中で酒を舌の中央の道にだけ通して喉へ運びがちで、酸味等を感じる舌の両側に酒が触れずに通過するから、甘く感じてしまうのだという。私は昔一緒に土方仕事をしていたテルさんとういう、酒好きの日雇い人夫さんを思い出していた。テルさんは冷酒を飲むときは口を尖らせて、しかも酒が胃袋に流れ込むまではしっかりと息を止めていた。労働者のアオる安酒は、香はしつこく味も刺すような酸味や苦味が強い。こうして見るとテルさんはあまり上等でない酒を旨く飲むための、正にお手本のような飲み方をしていたのだと、やけに感心してしまった・・・。

 丸い筒型の器を口に近づけると人は思わず口をすぼめてしまう。この無意識の動作はお酒を飲むのには好都合かもしれないけれど、尺八の吹奏には実に忌まわしいことなのだ。唇やその周りの筋肉を収縮させて風の吹き出し口を硬くすると、どういう理屈かは分らないけれどもとにかく音は響かない。顔の中のとりわけ口の周りは複雑極まりない筋肉の集まりで、それが管楽器の微妙な音色を作り出す重要な要素になっていることは間違いない。ただ悩ましいのはそれが無意識に動いてしまいがちだということで、またその筋肉の動きは必ずしも尺八の音には好都合ではないことも多いということを、我々は知っておくべきだ。



新 緑 -4-                百錢会通信 平成22年5月号より

 尺八の難しい運指を教える際に、とにかくゆっくり動かすようにと私はお弟子さんに指示している。ところが殆どの人は体の動きの停止する時間が長くなるばかりで、いざとなると指の動きは瞬間的にとても早いのだ。気合と気迫は充分だけれども、自分の指が今どのように動いているかという実感がまるでないままに、がむしゃらな練習を反復している。どこに問題の真の原因があるかを突き止めずに繰り返す運指練習は、空襲を知らずに竹槍の稽古に勤しむのに等しくはないだろうか。私の先生はこういう時に「精神力で車は動かないのだ!」と皮肉たっぷりに仰ったものだ。

 私が「ゆっくり」と言うのは、指をわずか1cmほど動かすにも2秒も3秒もかけて、それをたとえるなら太極拳の演舞のように、滑らかで滞らずに、ということなのだ。そうすることによって、その過程の中で自分は如何に力んでいて、無駄な動きを無意識のうちにしていたかということを、初めて客観的に知ることが出来ると思う。

 今年の春の天候不順は私には生まれて初めての経験だ。昨日と今日とでは気温に10度もの落差があり、そんなことが春先の数週間に何回も起こるなんてことは、全く予測が出来なかった。けれども天候不順といっても概ねのことを言えば、例年より冬から春への移行に時間がかかっているという、ただそれだけのことだろう。冬から春への時の流れの中で、桜が咲いて、若葉が萌え始める様を、例年より拡大して眺めることの出来た年だったのだと思う。だからいつもの慌しい年度末年始には気にも留めなかったような、もっと細分化された季節の景色の美しさに、驚き感激したのだ。若葉の緑になる前の、白っぽい、遠目に眺めると木々にパウダーシュガーをまぶしたような“新緑未満”というような色を、今年ほど時間をかけてしみじみ眺めたことはない。ほんのわずかな一時の新緑の中にももっと多彩な色の分類があることを思い知らされたものだった。若葉の緑の美しさに取り憑かれるほどにこの細分化は進んでいくことだろう。

 ところで我々の認識というものは、時間の流れの中で見聞きするものを、どこまでも言葉の上で特徴付けられた段階として分類しようとする傾向がないだろうか。何日に開花、何日に落花、何日に葉桜と・・・。でもよく考えてみればこの春に長く眺めたのは、固定して動かない桜の花や若い葉の緑ではなく、実はその移り変わりを長く眺めただけなのであって、そこには始まりも終わりもない。始末のケジメをつけないと気がすまない我々の分別意識というものは、この自然の悠久の連続性というものにどうも馴染んでいないような気がする。

 尺八を譜に縛られて演奏する人のぎこちなさも、或いは難しい運指に難儀することも、このあたりにその消息がありそうだ。尺八の譜字を一生懸命睨んでいると「ロ」や「ツ」だ「ヒ」だのと、それぞれ固定された音が突然現れてくるように思われて、実はその移り変わりの狭間に起きている様々な現象を見落としてしまい勝ちだ。或いは無意識のうちにそのことを無視しようとしているかも知れない。常に変化していて跡をとどめないのが音である。「ロ」の一音の中の移ろいを味わうこと、もっと極端な観方をすれば「ロ」と「レ」はつながってその区別も無くなることを目指したいと思う。

 言葉というものは説明的であるという宿命を持っているけれど、あえてその言葉を用いて言葉自身の分別的な姿勢を超越しようとするのは、散文でなくて詩であると思う。尺八は詩的でありたい。春は花が咲いて散り、若葉が萌えるという、命のドラマティックな場面を目の当たりにするから、それぞれの一場面を固定的に象徴、抽出しがちであるけれど、もっと普遍的な連続性の中で、これを静かに味わいたいと願っている。



右目、左目                   百錢会通信 平成22年4月号より

 かつて私が尺八を教えた門人に吹き矢の名人がいる。吹き矢といっても近頃カルチャーセンターなどで流行の「スポーツ吹き矢」と言って、ダーツのように的に矢を当てて点数を競い合う競技で、忍者のそれではない。さてその人は始めて数ヶ月で連戦連勝、指導者よりも強くなってしまったようで、同輩から指導を請われてちょっと困っていたようだった。何故にそんなに容易く的に当てることができるのかと問われて、本人曰くそれが余りにも簡単な理屈なものだから、それを教えたら指導者の顔を潰すことになるから弱っているとのことだった。

 要は顔の中心に咥えた筒と、的を狙う眼の位置の横軸上のズレを考慮に入れないと、実際の筒先は的に向かって真直ぐに向かないということだった。その時は「なるほどネ・・・」と他人事のように感心していたけれど、後になってこれは尺八の吹き方にも直接関わる大事なことではないかと思い愕然とした。

 あくまで尺八は口元、唇にとって一番フィットする場所にセットするわけで、その位置が右目と左目の中心にあるとは限らない。右目と左目の横軸上のどこに尺八の歌口の中心があるのかによって、尺八の向きの視覚的な感じ方は大きく変わってくると思う。それに“利き腕”ならぬ“利き目”の優越性みたいなものがあるとしたら、自分では真っ直ぐに構えているように見えても、実は微妙な誤差が生じているということは大いに考えられることだ。このあたりについては物理的な研究が必要だと思う。

 右目だけで見てみたり、左目だけで見てみたり、次に両目で・・・などと眼をパチクリさせながら尺八の向きを気にしてみた。また楽譜を見ている時に尺八の向きを眼がどのように感じているのかなどと気にしてみたけれど、簡単に結論的な法則を見つけることは難しいと感じた。尺八の音の結果を、吹き矢のように明快に理論化することは少し危険だと思う。

 思い起こせば小さい頃から私は、右目に見える映像と左目に見える映像との差異を比べるのが好きで、そんな一人遊びをしたものだった。一つの脳の中に異なった感覚が共存していることを体感するのが面白かったのだ。学校の先生にはこの異なる映像を一体化する複雑な作業が脳の中で行われていると教わったが、分かったような、分からないような、何だか釈然としなかった。例えば人差し指をじっと見つめたとする。なるほど両眼で見ているのに指は一本に見える。ところが後ろのボンヤリ映るコップは二重に見えるではないか・・・と。ピントの合わない世界を感じようとするのも面白い。とりとめもないことを、とりとめもないように考えるのが私は好きだったのだ。

 尺八の音に関しては、私は長く古典本曲独奏だけで来たから、迷いもなく片眼一本槍だったのかな、と思ったりもする。合奏の機会が増えてきて、一つの時間の中で多重的に他の音を捉える習慣が少なかったことに恨めしさを感じることも多い。父の命令に背き合奏に“手を染める”ようになって二十余年、それは私が虚無僧尺八一筋に過ごしてきた年月の倍になった。そういう今現在、私は虚無僧尺八の独奏に新たな思いを抱くようになった。それは、独奏とはその空間の静寂と言う音との二重奏ではないかということだ。ピントの合うもの合わぬものが音の世界に共存しているような気がしてきた。



猫の無関心                  百錢会通信 平成22年3月号より

 我が家の犬は、私が尺八を吹くと深刻な表情で遠吠えを始める。それはまるで非常事態発令のサイレンのようで、とてもじゃないがこちらは稽古にならない。家人はチャイコ(我が愛犬の名前)が一緒に歌い出したといつも笑い出すのだ。

 和楽器を初めとする世界の民族楽器には、人間の耳には聞き取れないと言われる高周波を多く含んでいるそうだ。犬の耳はそんな周波数帯の音までも拾って、尺八の音を我々人間には想像もつかないような音として聞いているのだろうか。世の中には尺八の良さの分からぬ輩の何と多いことかと嘆く“尺八信者”がいるけれど、人間だって同じ哺乳動物、犬並みの聴覚の人間がいないとも限らないから、尺八の音が耐え難い苦痛をその人に与えてしまっているなんてことだってあるのかも知れない。或いは“尺八信者”の方が犬並の感覚で、尺八の音に何か特殊なものを感じ取っているなんてことはないだろうか・・・。

 尺八を聞く犬の話では、あるお弟子さんの体験談に大笑いしたことがある。ある日広い公園の一角で尺八を練習していると、目の前に大きなドーベルマンが居座り、神妙に我が竹韻に耳を傾け始めたというのだ。ところが厄介なのはその猛犬は何と放し飼いで、主人の姿はそこにない。おとなしく聞いてくれるのは有難いような気もするが、もし吹き止めて立ち去ろうとすれば飛び掛って来やしまいかという恐怖に襲われて、演奏を止めるに止められなくなってしまったそうだ。冷や汗ビッショリで吹き続けた時間はどれほどだったか記憶に無いという。長かったのか短かったのか!とにかくしばらくして飼い主が現れ事無きを得たそうだが、あれほど真剣に尺八を吹いたことはなかったという。それは得がたい経験でよい稽古をなさったと私は笑って申し上げたが、本当によい稽古だったはずだと私は真面目にそう思っている。

 私が中学生になる頃までだったか、家にはいつも放し飼いの猫がいた。この猫という生き物の尺八に対する無関心ぶりは、今思い起こすとそれはそれで興味深い。犬の反応とは正反対で、良く言えば泰然自若としていた。尺八の音に気がつけばハッとしたようにこちらを凝視するが、自分に関わりがないと思えば、悠然とその場を立ち去って行く・・・。いつもそんな光景だった。犬が己の主張を相対するものに向かってはっきりと現すのに対して、猫はその存在さえもどこか曖昧としてミステリアスだ。どこからともなく現れ、いずかたとも知れずに消えて行く、けだるく生暖かい春の風のようなところがある。

 私のような浮世離れの尺八吹きでも、演奏会ともなれば尺八の音をお客様がどのように受け止めて下さるのかをどこかで意識している。拒絶されるにしても受け入れて下さるにしても、何かはっきりした結果の現れることを想定しているのである。それは先の犬と尺八のエピソードのようにとても明快な出来事だ。ところがそれに比べて、古の虚無僧の尺八と人々の出会いは、もしかしたら“猫型”が多かったのではないだろうか?という妄想が俄かに膨らんで来たのである。予期せぬ邂逅にお互いが一瞬立ち止まりはするけれども、その後は何事もなかったかのように立ち去って行く。何でもないそういうことが来る日も来る日も繰り返される。猫のような無関心の中に韜晦する竹の音。そういう尺八のあり方もちょっと味わい深いと私は思う。



iPodを買った                     百錢会通信 平成22年2月号より
 高校1年の娘の友人に、携帯電話を持たないという今時珍しい人物がいる。自らきっぱり必要ないと言い切るところがちょっと立派だと思った。聞くとテレビはNHKだけ。タモリも知らなければみのもんたでさえ見たことがないという。耳にする音楽はクラシックだけという誠に徹底したものだ。

 それに引き替え四十半ばの私は、最近iPodという音楽も聞ければ録音も出来て手帳にもなるという、当世流行りの電子機器を手に入れた。と言っても搭載機能の十分の一も使いこなせないだろう。こういう物言いをするところ既に時流に遅れるを恥とする後ろめたさが滲んでいるわけで、進んで時流には乗らないと宣言する件の友人には恐れ入るばかりだ。

 さてこのシロモノ、手のひらサイズの本体に何百曲ものレコードを内蔵出来るわけだが、私には勿論そんな容量は必要ない。外にまで持ち歩き、折に触れて聞いてみたいと思う曲がそんなにはないからだ。数少ない私のお気に入り数曲をたまには紹介して見ようと思う。

 

 越野栄松の「雲井弄斎」という箏組歌は何時聞いても良い気分になる。江戸時代の得体の知れない囃し言葉などがあって歌詞の意味は何だか良く分からないのだが、却ってそれが想像力を掻き立てて良いのかも知れない。歌と箏だけの誠に簡素な音の織物だが、愁いに満ちた艶やかな声と柔らかな音色の織り成す世界の奥は深い。デジタルの音源を手に入れていないのでiPodにはまだ取り込んでいない。

 

 西松文一の地歌「ゆき」もつい繰り返し聞いてしまう。こちらはCDを持っているのですぐさまiPodに取り込んだ。今まで名人達人による「ゆき」の名盤を聞いたけれど、私にはどれも生々し過ぎたり、或いは体裁が良過ぎてよそよそしかったり、あまり積極的に向き合う気にはなれなかった。ところが西松のそれは理屈抜きに、心の隅々まで清水の染み渡る思いがする。それで初めて如何に自分の心が渇いていたかを思い知るのだ。盲人としての西松自身の来し方、その感慨がそこはかとなく漂うようで、その控えめな加減が余情を増幅させる。音楽はやはり聞く側に想像の余地を与えて欲しいものだと思う。

 

 当然のことながら自分の演奏は余り聞かない。演奏の出来、不出来は別としても、私自身の「独りよがり」というか、自己愛的な傾向を客観的に認識するのが辛いからだ。ただ山登松和さんと合奏した「布袋」は不思議に快く聞いていられる。この曲を演奏するに当たっては、脇役としての尺八の役割を十分自覚していたからだと思う。

 自己愛的という言葉で思い出すのがスラヴァという声楽家で、最近よく聞いている。この人には、宗教的な受難を受け止めてどこか恍惚としてしまう心の傾向を感じる。こういう宗教的マゾヒズムは、どうしても自己愛的な傾向と切り離せないだろう。そうとう甘口の歌いっぷりなので行き過ぎを批判されることもあるだろうが、私は気に留めない。人間の心の内側にはどんな人にも暗黒があり闇があるはずだ。芸術作品は決して綺麗ごとでは済まないと思う。一見高尚で穏やかな作品でも、一歩踏み込めば、近頃過剰にマスメディアに流れる過激な内容のポップスや娯楽映画より、ずっと生々しいことが表現されていることはあるものだ。

 

 ということを、娘の友人と話してみたいものだと思った。どんな音楽をどのように聴いているのかと。けれどもそれは彼らが年月を経て、色々な経験を重ねてからの方がきっと面白いだろう。



                              百錢会通信 平成22年1月号より  

  昨年の浴衣会に顔を出した父が、会場の法身寺に杖を忘れて行った。小菅和尚に言われてその杖を見ると何とも父らしいというか・・・、普通なら玄関先に置いておくのも憚られるようなシロモノだったので、すぐ私が持ち帰ることにした。

 手ごろな太さの篠竹を、只適当な長さに切っただけの杖だが、両端がそれぞれ赤と白のビニールテープでぐるぐる巻になっていて、まるで工事現場のうす汚れたガードレールに巻き付けられたテープのようだった。そしてお決まりの「一月浪士」の号が油性ペンで書き込まれている。仏法の伝承で衣鉢を継ぐという言葉があるけれど、同じような意味で杖を後継者に渡すというような話があったと思う。なるほどこんな竹棹一本にも、よくその人の思想と人間性は泌み込むものだと、しばらくその杖を眺めていた。

 昨年秋に大学でお世話になった能の先生が永眠された。終始一貫私利私欲が無く、良いものは良いと言い、悪いと思えば容赦無く刃を振り降ろすという先生だった。「潔さ」という言葉のこれほど相応しい人物に、私は未だお会いしたことがない。都内の某ホテルで開かれた「偲ぶ会」には、先生のそういうお人柄に惹かれた多くの人々が駆けつけた。

 ご親族を代表して挨拶なされたのは先生の甥御さんである。先生の厳しい指導を受けた、やはり同じ流儀の能楽師だ。歳は私より少し上の先輩で、大学では一緒に助手を勤めたことがある。この方もまた肚の据わった人物で、少々のことには微動だにしない。下手なやくざなどは舌を巻いて逃げて行くに違いない。そういういかにも堂々とした風格は生来の気質かも知れないが、きっと能の厳格な修行に依るところ大であろうと私はかねてから感じていた。

 その彼が壇上でまさかの大粒の涙を流した。先生が病に冒されていく過程を淡々と報告なされていたのだけれど、「癌の治療のための入院にあたり、伯父からもらった手紙に、見舞には来るなと書いてあり・・・」と言ったきり絶句してしまったのである。

 その思いの深さは本人以外何人といえども知ることは出来ないであろう。けれども我々列席者はこの場に遭遇して、想像するに余り有るその芸の伝承に対する情熱に、深い感動の涙を禁じ得なかったのである。満身の力を込めて奥歯を噛みしめ身を震わせていた、その心の内には哀しみばかりでなく、先生に対する感謝の泉が溢れて止むことがなかったのだと思う。

 しかるに我々はどうだろう。もちろんプロフェッショナルの世界の話であるが、これほど師弟一丸となった本気の稽古が尺八の世界で一体どれほど行なわれているだろうか。小手先の技術論、口先の精神論が蔓延していないだろうか。我が身を振り返って大いに反省させられる出来事だった。

 まだまだ足りない・・・という気持ちが、情けないことだがこの歳になって増して来た。父に印可を貰ったわけではないから、先の杖は早くに返しに行こうと思っている。



礼 節                           百錢会通信 平成21年12月号より  

 先日、湯島の稽古に通って来ている高校生のK君が、私がもう帰ろうとしていた夜の十時過ぎに忽然と現れた。こんな時間にとびっくりしている私にK君は「いえいえ、こんな遅くに稽古のお願いに来たんじゃないんです。」と、何か切実な口調で弁明を始めた。聞くと修学旅行から今しがた帰宅したようで、そのお土産を今なら稽古の時間に間に合うかも知れないと思って、大急ぎで届けに来たというのだ。そしてK君は部屋の様子を見るとすぐに「何か片付けのお手伝いします!」と言った。お土産のお菓子を日にちが経たぬうちに届けようという心遣いも嬉しかったけれど、稽古終了間際に押しかけてきた非礼を詫び、そして私の疲れを気遣ってくれる高校生の態度が、何より嬉しかった。

 邦楽の世界は「礼節」を重んじると言われてきた。K君の何気ない仕草は、親子三代に渡る民謡の専門家一族という環境に、少なからぬ影響を受けて来たことだろう。もしも私が逆の立場で、咄嗟にそういう行動が取れただろうかと考えると実に心もとない。いわゆる“業界”の常識や作法というものに私が出会ってからの歴史は、実はとても浅いからだ。

 しかし一方では、「礼節」あるいは一般的な「礼儀作法」と言うものを、盲目的に重んずるのも如何なものかと思う。思索という彫琢を受けない、つまり思想の裏打ちの無い「礼節」が表面的に利用される時、美しいはずの「作法」がとても醜い人間関係を構築してしまうことがあるからだ。研鑽も積まなければ努力もしない先生に、何でもかんでも生徒はかしずかなければならないとしたらどうだろう。

 あまり難しく考えることはないと思う。要は双方がどれだけ真剣に取り組むか否かにかかっているのではないだろうか。そうすれば自ずとお互いを尊敬する心が湧いてくるものだ。初心者は先輩の技術を尊敬するかも知れない。では熟練者は初心者に学ぶことはないだろうか?そんなことはあるはずが無い。緊張して指の震える初心者の純真さは何にも替えがたい美しさを秘めている。そのことを感じ取れないような、鈍いベテランになってはいけない。本当の意味での尊敬は、技術の優劣などという次元を遥かに超越したところに成立するものだと信じたい。

この秋から小さな短期大学で1コマだけ、尺八を教えている。恥ずかしながら実際に対面するまで、受けもちの生徒が自分の娘の歳に近いことに気がついていなかった。思い起こせば私が一人であちこちの尺八の集まりに顔を出すようになったのが高校生の頃だったと思う。どの先輩も折り目正しい態度で接して下さったものだ。だから私もそういう「礼節」を以ってこれからの若人と付き合っていきたいと思っている。

年代を超えて尊敬し合うことの出来る交流を「忘年の交わり」というそうだ。百錢会の集まりは、今までもこれからも「忘年の交わり」であると自負している。12/23は法身寺でお会いできるのを今から楽しみにしている。

 



呼吸法                          百錢会通信 平成21年11月号より

歳をとると誤飲の事故が多くなるから注意を!という呼びかけを、年末年始が近づくとよく耳にするような気がする。お正月はお餅を食べるから特に気をつけなければならないからだろうか。ある箏曲の友人から、人間が物を飲み込むという動作は、実は非常に複雑なメカニズムで成り立っているという話を聞いたことがある。その友人のご尊父はやはり箏曲家で、残念なことに四年前に亡くなられてしまったのだが、話はその介護談の中で教えてもらったことだった。

衰弱も著しくなった頃、少しでも活力を取り戻して欲しいと祈るような気持ちで食事の世話をなさったそうだが、誤飲には細心の注意が必要だったそうだ。担当医師からの指導があったのだろう。そもそも人間が物を飲み込む時に、気管の道を塞いで飲食物を食道に導くには、多様な筋肉を非常に精密なタイミングで動かさなければならないそうだ。そしてその筋肉とは咽喉付近に留まらず、肩や背筋にまで及んでいると言うので、そのことが私には大きな驚きだった。高齢者の誤飲は、体全体の筋力の衰えが少なからず影響していると言うのだ。

今私がその話を思い出したのは、演奏の際の呼吸法も物を飲み込む動作と同様に、きっと様々な筋肉の複雑な連携の上に成り立っているのだろうということを、最近しみじみ実感しているからだ。

声楽も管楽器も、呼吸は腹式呼吸でなければいけないと言われる。けれどもその腹式呼吸とはどういうものか、ということになると色々な演奏家が色々なことを仰る。どれも正しいのだろうけれど、学習者にそれが正確に伝わることはとても稀なことのようだ。最近は何でもかんでも科学的な実証が盛んだから、かなり難解な生理学用語(というのだろうか・・・)を用いた解説が増殖してきている。それは実際に良い成果を上げているだろうし、決して無意味なことでは無いと思うけれども、科学的な分析による成果というものは実際のところ「渺たる滄海の一粟なり」というほどのもののように最近は思われてならない。体のコントロールというものはかなり神秘的なことだと思うようになってきた。

近年の私の舞台で、先日のリサイタルほど呼吸に注意を払った演奏はない。色々な人の色々な呼吸法を参考に試行錯誤を繰り返してきたけれど、却って混乱することが多かった。とにかく深く吸うことが出来なければいけない。深く吸うためにはしっかり吐くことができなければならない。ただそれだけのことが上手くいかないものだ。私の場合、呼気と吸気の転換に難儀してきた。これが思うようになれば精神的な集中力は飛躍的なものになる。

その工夫の場として、私にとって有難かったのは毎月の法身寺の坐禅である。坐禅していれば誰でも呼吸法が上達するというわけではないけれど、たかだか三十分でも呼吸のことだけに集中するということが日常にはない。どこまでも自分の工夫努力であるけれど、その場を頂けるということは実に有難いことだ。十年以上もご指導下さる小菅和尚にこの場をお借りして、心より感謝申し上げる次第である。



機内誌で見つけた食の話題から      百錢会通信 平成21年10月号より  

「料理に腕を振るわない街に、旅人を誘う資格はない」。機内誌のエッセイの中で見つけたフレーズだ。地方都市を東京から見下ろす視線が無きにしも非ずの物言いだが、このライターの言いたいことは私もよく解る。

実際旅に出て地のものを食べられないことほど味気ないことはない。何も高価な特産物のご馳走を望んでいるわけではなく、その土地、その季節の、出来れば旬のものにありつけるのならもう何も言うことはないのだ。

旬と言えばその時もっとも収穫量が上がるのだから、当然価格が安くなるわけだ。北陸出身のある人物の「私の家は貧乏だったから、子供の頃のおやつは蟹ばかりだった・・・」という述懐は面白かった。やはり同じエッセイの中の 一文だ。ずいぶんと贅沢なおやつだと思ってしまうが、そう感じてしまう都市の食生活の方が歪んでいるのだろう。

地場のその時節の、リーズナブルな産物を仕入れて来て、ちょっとだけの笑顔でもてなしてもらえれば、旅人は充分幸福を味わえるものだ。料理の基本は愛情だと思う。さぁ夕食をという時に全国一律チェーン店の看板を見ると、旅情もヘッタクレも無くなってしまう・・・。

全国一律という言葉から、ふと尺八古典本曲の画一化という話題を思い出した。全国各地の伝承曲を収集した神如道が古典本曲の地方色を無くしてしまったという批判である。

けれども、一人の人間が各地の伝承曲の、土着の味わいなど出せようはずがないというのは自明のことで、神如道自身よく心得ていたのではないかと思う。当時の古典本曲はそのほとんどが絶滅危惧種であったから、その危機を救おうという意思が強くあったのは事実だと思う。しかし一方では土地の伝承者のいるところに乗り込んで行って、摩擦を起こしてしまったという話もあるから、その真意は一体何だったのか、少し興味のあるところだ。

中華料理は絶対的な権力を背景に、各地の料理を中央集権的に整理統合して、研ぎ澄まされたレシピを集大成していったようだ。時の権力者が囲った選りすぐりの調理人たち。その芸術的感性と技術をもって、郷土料理を含めたあらゆる中華料理を一大食文化に昇華させようという、中華民族ならではの野心の感じられる話だと思う。神如道にひょっとしたら、そんな気持ちが少しはあったのだろうか・・・。

それに引き換え、現代の飲食業界の全国展開、否、世界展開を目論むフランチャイズという経営方式だが、私はこのシステムの根底に文化的な創造意欲があるとはとても思えない。どこまでも営業利益の追求のみに純化していくように感じる。旅先でチェーン店の看板を見てがっかりする本当の理由はここにある。食文化といえるものが日本の大都市から姿を消し始めて、それが地方都市にまで波及していくことの証に見えてならないのだ。

今年は私には珍しく出張の多い年だった。そして幸いなことに“コマーシャル”臭くない食事をたくさん頂くことができた。この秋からの演奏予定を見ると年末まで、私は関東を出ることはなさそうだから、せめて旅先で得た栄養が演奏に現れるようにと念じている。



プラハから帰ってみれば            百錢会通信 平成21年9月号より   

先日久しぶりの海外の仕事でチェコのプラハに出かけた。聞きしに勝る美しい街で、出国前には会う人皆に羨ましがられた理由を、現地を訪れてなるほどと初めて実感した。滞在した一週間は好天続き、サラッとした爽やかな空気で、空の青さは日本ならばかなりの高地にでも赴かなければ見ることの出来ない鮮やかさで、朱色の屋根とのコントラストは忘れることが出来ない。チェコ人の誇りだというピルゼンビールの香りは絶品で、私の中では本場ドイツの味が全く霞んでしまうほどだった。

私に付き添ってくれる通訳のJ君は、チェコ語と英語と日本語を操る二十代の青年だ。自称日本のアニメおたくというとてもユニークなキャラクターだ。よく観察すると日本のアニメ好きの少年と同じ仕草をするので面白いと思った。言語に対するアニメマニア特有の知的水準の高さも興味深かった。

さて空港に迎えに来てくれた彼は、移動の車の中で初対面の私にニヒルに呟いた。チェコは旅行で訪れるには良いけれど住むのは大変だと。どうしてと訪ねると人間関係が難しいというのだ。街中を歩くと西ヨーロッパとはまるで違う顔立ちの、美男美女が多いと思ったが、なるほど手放しに幸福な顔にはなれない翳りが感じられたのも事実だった。どこか楽天的になれない風がある。

私が招待された今回の尺八サマースクールは毎年の開催で、既に6回を重ねるというので驚きだ。音頭取のM氏は、大学で民俗音楽と作曲を教える教授で、社会主義時代にインドへ留学しようとしただけで逮捕、13ヶ月に渡る拘置生活を経験したという。ヨーロッパでこんなスクールを熱心に開催する中心人物としては将に“筋金入り”だ。

フランスやドイツ、イギリスからの参加者も多く、皆一様に熱心であったけれど、尺八を学ぶ真剣さは、特にチェコの人たちに限ってはむしろ“深刻さ”が感じられた。それはJ君にかけられた初っ端の呪文の所為かも知れないけれど、とにかく滞在中はずっとそういう思いを拭うことが出来なかった。

私は英語もおぼつかないものだから、成田に辿りついた時はホッとした。母国は有難いと思う。日本の都市は本当につまらない開発が進行して最近の街は面白くないけれど、美しいところはまだまだある。その美しさは欧米のそれとは全く異質で、妙な表現だけれど、自然の恵みに可愛がられている・・・とでも言うような優しい空気を感じる。しかもその中で世界に恥じることのない、深い精神的な世界を耕してきたのだから、私は素直に我々の祖先を有難いと思っている。ところが今の日本人は少しふやけすぎてはいないだろうか。

帰国後まもなく電車の広告をみてがっかりした。「本棚で埃りを被った夏目漱石全集を○○で売り払って、貯めたポイントを提携の写真屋で使って子供の記念写真を撮った。その坊ちゃん刈りが可愛くてまぶしい!」と結んでいる・・・。

戦争で涙を飲んで降伏し、古い街並みを残したけれども、辛酸を嘗めてきたという外国の景色がまだ瞼から離れない。日本だって生々しい敗戦を味わったばかりではないか。日本の近代の夜明けの混乱はまだ続いているという意識はないのだろうか。明治期の日本人の苦悩はさっさとポイントに変えて、キャー可愛い!ではお粗末極まりない。



群馬にいて思うことアレコレ          百錢会通信 平成21年8月号より  

群馬の稽古場はご存知の通り里山の中にあるので、この時節は二週間も放置すれば一面草ボウボウになる。父が車の運転をしていた頃は足繁く通って草刈りをしてくれたが、今は私が稽古の合間でするしかなくなった。

稽古場にいると、雨後に伸びるのは竹の子ばかりではないことを思い知らされる。聞くとこの時期の雨はマイナスイオンを多く含むとやらで、草木の成長が早いのだそうだ。植物については学者並に詳しい、群馬教室の門人の斎藤説成さんが教えてくれた。

刈っても刈っても次から次へと生えてくる。それは厄介なことには違いないのだけれど、草木がざわめく様に生い茂るのを眺めるのは、それはそれで悪い気はしない。いっぱい酸素を出してくれるのだから有難いことだ。

 

駐車場の栗の木や紅葉の木の枝が、車の天井にハタキをかけるように覆い被さって来たので、これも剪定しなければならない。この季節になると所沢の自宅界隈でもあちこちで植木屋さんの姿をみかけるので、自分で鋏をいれるならどうしたら良いかを、また斎藤さんに尋ねてみた。するときっぱり「この季節の剪定は好ましくありません」と仰った。なるほど成長期に怪我させて良いわけがない。斎藤さんの視線はどこまでも植物の命に向けられている。どちらかと言うと人間の都合の方が二の次だ。人は自然と向き合う時、とかく自己を主人公と考えがちだ。その主客の反転に留意せよ!とは、我が師、岡崎自修先生の言で、そんな戒めがふっと甦ってきた。

私は教わるそばから何もかも忘れてしまう大馬鹿なのに、斎藤さんは苦笑しながらも、根気強く草花の名を教えてくれる。「名も無い花に・・・」なんて気どった台詞があるけれど、そんなものはおよそ無いことを知った。こんな雑草にまで?!、と思うほどに、どんな草花にも名前はあるもので、それは意外な驚きだった。片端から諳んじてくれる学術名と俗称を聞くのは実に楽しい。可憐、爽快、陽気、快活、倦怠、憂愁、妖艶、沈欝、清楚、純真。様々な芸術のイメージを喚起させる名前のオンパレードである。人間が自然といかに関わってきたかは芸術の重要な問題だ。もしかすると草木の名にその形跡を見ることが出来るかも知れないと思った。

 

名前を知れば情が移るものだ。草むしり一つにしても「こちらの都合でごめんなさい」と謝る気持ちが湧いてくる。こんな小さな改心に都会人は自己満足することだ。自然に還るを得たりと。しかしそれで良いのか。除草剤を撒き散らしてさんざんゴルフを楽しみ、年老いて仏心に目覚めましたでは、ちょっとムシが良過ぎやしないか・・・。群馬にいるとそんな自問自答を繰り返す。

良寛が筍可愛さに屋根に穴をあけようとして、却って己の庵を火事にしてしまった。家が火事になったのだから、恐らくその筍も燃えてしまっただろう。最近のエコロジーブームもそんな愚行にならないことを祈っている。



別ルート                         百錢会通信 平成21年7月号より

㈱目白のレッスンの空き時間によく近所を散歩する。落合付近は静かで綺麗な住宅が多いので、見物して歩くと気分がなごむのだ。小さな公園も多いし、10分歩けば小鳥のさえずる小さな森ぐらいのところもあって、気分転換には申し分のないロケーションだ。

先日ものんびりと散歩していたら、20メートルくらい先の曲がり角を長唄の先輩が歩くのが見えた。確かその先の路地は袋小路だから、今度の空き時間に先輩の自宅を捜索してみようなどと、ささやかな冒険心が沸いてきた。

それで次の散歩で改めてその路地を歩いてみたが、とうとう突き止めることが出来なかった。何故なら袋小路とばかりに思っていた、車などはとても通れないその路地は、実は四方に通じていたからで、探検ごっこはあっという間に振り出しに戻されてしまった。

ところがその数日後、宅急便のお兄さんの元気な声の聞こえる方を何気なしに見てみると、紛れもなくその先輩の表札がかかっているではないか! 秘密の捜査はこれまたあっけない幕切れとなってしまった。ご自宅は駅の改札を出てから、二回交差点を曲がるだけで辿り着くという、実に分かりやすい場所にあったのだ。

ただ訝しいのは、先日お見かけした場所である。人だけが通れるようなその路地のコースを選ぶなら、駅から数えて少なくとも8回はクネクネと角を曲がらなくてはならないのだ。舞台のお姿の華やかさとは全く対照的というべき、内向的な別ルートの選択だ。

先輩は舞台だけでなく宴会芸でもヒーローだった。某長唄三味線教授がもしも野球の三塁コーチャーズボックスに立ったなら、などという設定で披露してみせる物真似芸は絶品で、宴はいつも爆笑の渦に巻き込まれたものだった。そういう人物の華が、落合界隈の家々の、つつましい庭木のすぐ横を通り過ぎて行く。舞台人にはそういう心のバランスのとり方をする人が多いのだろうと思うと、そこはかとない感慨が込み上げてきた。 



努 力                       百錢会通信 平成21年6月号より

「この店悪くないよ、だって見てごらん、店員に馬鹿面が一人もいないもの」。合奏練習の後、恒例の寄り道で暖簾をくぐるや否や友人はこう言い放った。予言通り、誠に機敏な店員の応対は清々しく、運ばれて来る酒肴はどの品も気のこもった美味だった。
 先の言葉は、裏を返せば世の酒場に如何に馬鹿面の多いことかと言わんばかりで、痛烈極まりない。私はこの友人の、何かにつけてシニカルなコメントに前から興味を持っていた。

そういえば一年も前にやはり同じような寄り道の際、彼がこんなことをつぶやいたのも今思い出した。「最近、高いヒールの靴を履く若い女の子は、みんな膝も腰も曲がってるのね・・・」ヒールの高い靴を履いたことはないけれど、踵を高くして膝を曲げないで歩くのは中々大変だということは容易に想像がつく。けれども毅然とした姿勢がぴんと伸びた膝を介して細いヒールに繋がってこそ綺麗な線が生まれるのだから、美しく見せたいなら筋力を鍛えて歩き方をトレーニングしなければならないのだろう。ハイヒールさえ履けば美しくなると思っている安易さを彼は冷笑するのだ。というより嘆いているようだった。

「努力」という言葉の価値がこれから加速度的に下がって行くだろうという観測は、以前から私も強く感じていたことだ。彼の言葉の皮肉も根底ではこのことにそのまま繋がっている。スペインの哲学者の予言が的中しているなら、民主主義の名の下に「努力」という行為を黙殺する恐るべき大衆は膨張して行く。中学の授業で教わった「人間は生まれながらにして人間らしく生きる権利を有する」という美しい(?)スローガンが、群集の無意識にどのように取り込まれたかを想像すると、ちょっと薄気味悪くなってきた。まして現代の商業主義が、努力という刺激から無感覚になった群集の動向を虎視眈々と見張り、如何に旨味を搾り取るかに血道をあげる非常のメカニズムだとしたら、尚のこと鳥肌が立つ。

ちょっと話が大袈裟になってしまった。安易な結論だが、まずはコツコツ尺八を精進努力して、先のような「悪くない店」を探して芸談義でもするのが、差し当たりまっとうな生活ではないかと思う。



新 緑 -3-                    百錢会通信 平成21年5月号より


 春と秋、年に二回だけ鎌倉で催される小さなサロンがある。私が大学で助手を務めていた当時に、大変お世話になったある教授が主催なさる、実に和やかな食事会である。もともとは、能、長唄、箏曲、尺八等、各専攻の助手の日ごろの労をねぎらいましょう!という先生のお声掛けで始まった食事会だったが、先生が退官なされてからはご自宅でのホームパーティーに変わったのだ。実に上品で季節感溢れる奥様の手料理に惹かれて集まると、思いがけず懐かしい顔ぶれに遭遇できるので、それがまた格別の楽しみだ。だから余程のことが無ければ休まずに出席することにしている。

 開宴はいつも決まって午後の四時過ぎ、日の暮れぬ内に始まる。先日も穏やかな良い天気で、電車の窓から見える若葉の緑が清々しかった。先生ご夫妻の笑顔と、友達と、お料理にお会いするのが楽しみで、ちょっと童心に返ったような、わくわくした心持になる。

 ところが私は何故か、鎌倉という地を訪ねると独特の緊張感に襲われる。小学生の時、父に手を引かれて鈴木大拙の墓参に東慶寺を訪ねた時もそうだったし、友達とただ騒ぐだけだった中学の退屈な遠足の時ですら、そう感じたものだった。多くの侍の血が染み込んだ、武家社会発祥の地であるという思い込みの所為かも知れない。何か油断のならない妖気の漂うと言うか、一寸先に闇があるような気がしてきてならないのだ。

 やはり学生時代にご指導頂いた、別のある先生も鎌倉にお住いだった。とても立派なご自宅とお聞きしていたが、数年前に私が初めてお訪ねしたのは、なんと先生ご自身のご葬儀だった・・・。とても身体の丈夫な印象の先生であっただけに、突然の訃報に愕然とした。「朝の紅顔は夕べの白骨」という一節をこれほど痛切に思い浮かべたことは無い。

実は昨年の夏に先生も大きな手術を受けられた。先の記憶も生々しかったので、友人を通じてその知らせを聞いた時は本当に身体が凍りついた。どうかご無事でありますようにと何度も心の中で念じた。

そんなわけだから昨年の秋のサロンは中止と覚悟していたら、驚くことにご案内の通知が届いた。お会いするとさすがに体重を落とされていたけれども、気は衰えていないと感じた。眼に力がある。痛快という言葉がこれほど似合う笑い声の持ち主はいないと思う。先生のその笑い方が少しも変わっていなかったので、ほっと胸をなでおろしたものだった。

今年の春も変わらぬ笑顔で迎えて下さった。会の名前は奇しくも「若葉サロン」という。夜も更けて、次回秋の予定を手帳に記して散会となった。こうして鎌倉行を重ねる度に、若葉の緑の美しさは私の心の中で深まって行くに違いない。



「待つ」ということ                  百錢会通信 平成21年4月号より

 俳優の仲代達矢が「役者っていうのは、常にウェイティングなんです」と言っていた。役が付くのをひたすら待つ生き物であると。俳優の宿命を語った些細な一言だけれども、妙に忘れられない言葉だ。
 梨園の貴公子なら、待つ暇もなく次から次へと役が付くのだろうけれど、多くは依頼の連絡を待つ無名の役者達だ。私は芝居ではなくて音楽だけれども、やはり同じ舞台に立つものだから、彼らの一喜一憂を少しは分かるような気がするのだ。
 ところで役の付かない俳優は毎日何をしてるのだろうか。演奏家ならば例え舞台にかける曲がなくとも、発音や運指の基礎練習など、毎日欠かすことができない日課がある。それに古典というレパートリーなどは、演奏家に生涯をかけての反復と鍛練を要求するシロモノである。やるべきことは山のようにある。そこで演奏家のそれに対応するような、役者の自己鍛練のメニューがあるのなら、ちょっと聞いてみたい気がして来た。案外、演奏家にも役立つことが多いかも知れない・・・などという淡い期待があるからだ。
 一言で表現者と言っても、例えば役者と演奏家ではそれぞれの立場というか、構えはずいぶんと違うものだ。でも逆に、画家であろうが詩人であろうが共通するものは必ずある。それは一も二もなく、自己の内面に「育つ」ものと常に向き合わなければならないということだろう。この心の奥深くから溢れる泉が、音となり色となり言葉となって立ち現れる時に、それを美と呼ぶのだと思う。
 ここで私は「育つ」という言葉遣いを敢えて強調しておきたい。決して「育てる」のではない。なぜならあの純真無垢の輝きは、必然の結果にのみ備わるのであって、「育てる」という作為からは決して生まれて来ないからだ。だから表現者は、自己の孤独な内面の中に何かが「育つ」のをひたすらじっと待たなければならない。
 最後は必ず「待つ」という言葉に辿り着く。仲代達矢の先の一言にも、こんな思いが込められていたと思う。 



誕生日                          百錢会通信 平成21年3月号より

大阪の栄光時計の小谷さんは経済人でありながら、こよなく芸術文化を愛する、実に楽しい方だ。あるイベントで知り合ってから御交誼頂いてはや十数年になる。大阪で公演がある時は我が家を常宿にと言って下さるのを真に受けて、図々しくお邪魔させていただいたのが、今回で二度目である。

御自宅から車で30分も走ると有馬温泉なので、翌朝は今回も日帰り温泉に誘って下さった。道すがら目に映るあれこれを旅人の私に小谷さんは丁寧に説明して下さる。その“観光ガイド”で意外に思ったのは奈良の薬師寺の話だ。こんなところに別院でも何でもない土地を薬師寺が所有しているというので、ちょっと不思議に思った。けれども、前管主の故高田好胤師の経営手腕は有名だったから、大方“ビジネス”の一環であろうと、勝手に合点したのである。

高田好胤師の名を知っていたのは、師匠の橋本凝胤師が神如道と交流があったという話を父から聞いていたことと、私が小さいころ愛読していた「父母恩重経」の法話に高田師が非常に力を入れていたことに拠る。書店で「父母恩重経」の表題を見つけると、著者は決まって高田好胤だった。

話を戻して、意外に若い人で賑う有馬の温泉街。とある上品な佇まいの和食店で昼食をご馳走になった。そこで大阪在住のチェロ奏者の林さんを小谷さんに紹介していただいた。何とも言えず穏やかな方という印象だ。ヴァイオリン奏者の奥様も素敵な方で、気楽な音楽談義に花が咲いた。

私は林さんの人柄に接してふと、兄の高校時代の同級生だった、チェロ奏者の溝口肇さんのことを思い出していた。同じように穏やかで、どこかナイーブなところがあったように記憶している。私自身は溝口さんと親しく会話したこともないのに何故そう思っているのかというと、それは兄の誕生日に溝口さんがプレゼントしてくれた音楽テープからそういう印象を強く受けたからだろう。兄がそれを部屋で流すのを、いつしか私も引き込まれて何度も繰り返し聞いていた。お気に入りの曲と溝口さん自らのメッセージが編集されていて、しかも音響はわざわざ幻想的な深い残響に調整されていて、当時の高校生にしてはかなり手の込んだものだった。優しくてどこか傷つきやすい人柄を良く映し出しているように感じたのだ。

その中に高山厳という歌手(当時は演歌路線ではなかった)の「忘れません」という曲が入っていた。幽明を隔てた母を恋うる唄である。誕生日のプレゼントにこういう曲を選ぶ人なのだ。先の高田好胤師はお得意の法話「父母恩重経」の中で、誕生日は己を祝う日にあらず、母に感謝する日と心得可しと力説していた。この“高田節”も涙を誘う名調子であったけれど、音楽に託した溝口さんの-恐らくは無意識だったであろう-誕生日への思いもまた、そこはかとない切なさと人恋しさに満ちていた。



寿老人                          百錢会通信 平成21年2月号より

 小学生の頃、我が家に毎週のように遊びに来た尺八好きの知人は、また無類の酒好きでもあった。酔いつぶれて寝込むようなことは決してなかったけれども、ご機嫌の千鳥足はかなりのものだったので、帰り道はよく狛江駅まで送って行ったものだった。

 ある時もしたたか酩酊していて、手から煙草がすべり落ちたのに気付かずに畳が焼け焦げてしまった事があった。人間ここまで酔うものなのかと、普段大酒飲みに接することの少なかった母は目を丸くして驚いていた。幼心に不思議に思ったのは、畳を焦がされたことに母が腹を立てている風がなかったことである。腹を立てるのを忘れる程に、目の前の “酔人”の生態にびっくりしていたのであろうか。

 ずいぶん長い間その焦げ跡はそのままだった。“破れ障子に隙間風”、もともとそんな小さな焦げ跡が気になるような家ではなかったのが、母の無関心の本当の理由だったのかも知れない。“破れ障子”で思い出すのは家中のボロボロの襖だ。穴があけば経師屋を頼むでもなく、父が自慢の筆をふるって良寛の詩などをしたためて、それを“補修剤”としていた。他には禅画のカレンダーの絵だけを切り抜いたものなどがベタベタと貼り付けられていて、今思えばかなりアバンギャルドな空間だった・・・。

 中でも一番鮮烈に覚えているのは寿老人の画だ。仙崖ではなかったかと思う。賛の文句もはっきりと思い出せないのだが、確か「年明けて いくつになるか 寿老人」というようなものだったと思う。寿老人は福禄寿と同一起源とも伝えられ、もともとは道教から流れ込んだ、日本の七福神の中でもっとも長寿の神様だろう。数千歳というのだからそれだけで愉快な話だ。

けれども何故そんな画が忘れられないのか、今になって考えて見るのである。数千年も生きているから歳を忘れたという、それがどうしたというのだ。

天に向かって長く突き出した大きな頭の下の、小さな笑顔に惹かれたのだ! あれは己の長生きを慶ぶ顔ではない、時間という分別を超えて自ずからこぼれる微笑だろう。無限の優しさが溢れて見えたのだけれど、どこかに涙も隠れているように思えてならなかった。私の自由というもののイメージはこんなところに原点がある。けれども憧れているばかりでちっとも手に入らないものだから、今も忘れられないでいるのだと思う。

ふたたび“酔人”を思い出して見る。狛江の駅で見送る時、件の仙人の笑顔はちょっと寿老人に似ていなこともなかった。言われるまでもなく、成人してその真似事を私は何度も繰り返して見たけれど、出来ることなら般若湯の力は借りずに、竹を吹いて仙境に遊んでみたいものだとつくづく思う。今年もいい気になって屠蘇を戴き過ぎた反省の一言まで。



新人賞を頂いた年に               百錢会通信 平成21年1月号より
 私は今、何故尺八を吹いているのだろう? 年頭からコ難しい問いかけの積もりはない。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、只その因縁を徒然に遡ってみようと思っただけだ。

 父(昭三)に誘導されて小学生の時は既に、尺八の稽古と禅の講釈に耳を傾けることが私の生活の中心になっていた。父が何故尺八にのめりこんでしまったかといえば、それは神如道という尺八家に出会ったからだ。父にとって神如道は尺八の「技術屋」ではなくて、尺八という一つの「思想」である。

 では何の因縁で神如道と出会えたのかというと、そこに安岡正篤の存在があった。安岡は戦時下、東洋思想に基づく草の根の指導者(農士)の育成に努め「日本農士学校」を設立したが、神如道は安岡の依頼により、受講前の塾生に普化尺八をよく吹いて聞かせたのだという。父の兄、つまり私の伯父がこの農士学校の生徒で、父が伯父に弁当を届けた折に偶然、神如道の尺八を耳にした。落雷の如き衝撃を受けたようだ。

 神如道の尺八は禅や東洋思想的な雰囲気を醸し出す、一種独特の風であったようで、想像するに華やかな筝曲や三味線との合奏曲の世界に、その支持者を増やすことは困難であったと思う。時に世界は互いに喰うか食われるかのパワーゲームの真只中。危機にさらされたアジア諸国を憂う安岡正篤と神如道との接近には、何か時代的な巡り合わせを感じないではいられない。そこに少年の昭三がひょいと顔を出してしまった。辿り辿れば、それが私の尺八の始まりでもあったのだと思っている。

 1929年、世界中を恐怖に陥れた株の大暴落はアメリカに起こった。この経済危機をアメリカは戦争で乗り切ったとは言えないだろうか。その戦争で計り知れない血と涙が流れた。この時代に私の尺八のルーツがあるのだから、私自身は誠に平和で幸福な人生を歩ませて頂いて来たけれど、父を通して悲しみの色は体のどこかに組み込まれているはずで、好むと好まざるとに拘らず、私の尺八からそれが消えることはないと思っている。

 昨年は文化庁主催の芸術祭に初めて参加、44歳にして新人賞を頂いた。これからが大切であると思わずにはいられない。一つの大きな節目に違いないのだ。奇しくもその年に不穏な株の暴落がまたしてもアメリカに起こった。80年前の忌まわしい歴史の反復とならぬことをひたすら祈るばかりである。そう念じて尺八を吹いていこうと思う。 



バカヨウジ                         百錢会通信 平成20年12月号より

 ついうつらうつらと居眠りして、そのほんの短い間に奇妙な夢を見た。どうも宴席で演奏をしたようで、場面はちょうど舞台からテーブルに戻ってきたところだった。常套句の賛辞を頂いてさぁ食事を頂こうとした時に、同席の主催者が是非当会に入会して下さらないかと執拗に勧誘してきた。すると夢と現実がごちゃ混ぜになってしまったのだろう、夢の中でも猛烈な眠気に襲われて朦朧としながら手続きの書類に名前を書いてしまった。少し正気にもどってその書類を見ると、何と自分の名前を「馬鹿養寺惠介」と書き込んでいて、ビックリしたところで眼が覚めた。

 「善養寺」の「善」をすげ替えた仇名は、「つまようじ」に始まって随分と沢山の創作を賜り、小学生のころは常にからかわれたものだった。私は丸坊主頭にさせられていたのでまずは「ハゲ養寺」。誰かが「なまはげ」という鬼の名前を仕入れて来てからは「生ハゲ養寺」となってそれが大流行した。当時ビールの宣伝で「純生」というフレーズが多用されていて、「純」と「善」が似ているというので「善生ハゲ養寺」となり、ここに完成を見た命名者達は痛快極まりなしとばかりに笑い転げていた。

 そういう時に私の父は、どんな仇名でも物事を大局から見ればそれは友達の好意の一変種であるから、笑顔で受け応えるようにと私に言い含めた。私は素直に従ってその通りにすると、肩透かしを喰らった友達はだんだんに私を超越的な聖人として崇めるようになっていった・・。

 それからはクラスの「神様」「仏様」。聞くと父も「サマ爺」(ジイ様のこと)と呼ばれて、「ムラ」の長老に祀り上げられていたそうだ。

 私の師匠の岡崎師に「善養寺という名前に何かの力があることを忘れるな」といわれたことがあるが、善きにつけ悪しきにつけ、先祖の業を背負って生きていくものなのだ・・・という感慨が深くなってきた。夢の中で「馬鹿養寺」とくだけて見たのは、「善養寺」から少し休憩してみたかったのだろうか。夢分析に詳しい方からのご高見を賜りたいと思っている。



リサイタル雑感                    百錢会通信 平成20年11月号より

 いつのころからか、会報の巻頭言を「だ、である」調で書くようになっていた。「だ、である」だと、どこか断定的というか独断的な感じがして今だにしっくり来ないが、かといって「です、ます」だと、私の気の弱さというか、自信の無さみたいなものが滲んできて、主張に力が無くなる。いつのまにか「だ、である」を選んだのは会員諸氏に向けて虚勢を張ろうとしている無意識が働いたのかも知れない。結局は私自身の腹の据わり方の問題で口調はどうであれ、これからも自分の心のうちは飾らず、素直にありのままを現して行きたいと思っている。

 先日の私の演奏会は空きが数席しか残らない驚愕の大入りで、今でも信じ難い嬉しい大誤算だった。百錢会会員諸氏をはじめとするご支援下さる皆様のお陰で、これはとても「だ、である」で御礼申し上げるわけにはいかない。

初めての芸術祭参加公演に際しましては、ご友人やご家族など、沢山のお客様を同伴下さり、会場の雰囲気を大いに盛り上げて下さいました。本当に感謝の念に堪えません。勿体無いことです。幾重にも幾重にも御礼申し上げます。

 何度立っても舞台は緊張して震えてしまう。何か良い方法はないかと諸先輩に教えを乞うた。答えは一つ、無心になるということだという。けれどもこれほど厄介なことはない。いい演奏をしたい、格好良いところを見せたい、そういう邪心を無くそうとしても、開演の時間が近づくほどにこの妄念は怪物のように膨らんでくる。そういう自分に嫌気が差してきたりもする。動揺がおさまらぬままに何とか吹ききって、幕が下りるとどっと冷や汗をかく・・・。そんなことの繰り返しが続いてきた。

 「妄想の怪物」がもっとも暴れまわると予想された今回の舞台、これを回避する糸口を少しだけ掴んだような気がしている。正確には“回避”ではなくて“向き合う”ということかもしれない。毎月の坐禅の指導をして下さる小菅和尚のお言葉がヒントになった。それは「妄想に集中するという方法もある」ということだった。

 もちろん理屈ではなく、心というか体まるごと自分が自分の中に入っていくというような感覚で、それは不思議な静けさに満ちている。そういう心境に興味を引かれはじめた矢先に、私は次のようなある詩人のことばに出会って思わず涙がこぼれそうになった。

 「あなたは御自分の詩がいいかどうかお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ眼を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へお入りなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。」

 舞台でライトを浴びて深々と頭を下げれば、頭の地肌が随分目立ってきたねと笑われる歳になった。四捨五入すればもうすぐ五十という齢の私が引用した先の一文は、リルケの「若き詩人への手紙」である。

 



忙中の閑                        百錢会通信 平成20年10月号より

 先月からずっと忙しい。やってもやっても次から次へと事務仕事が湧いてきて、永遠に続くような気分になってきた。もちろん私より数倍手際の良い家内やお弟子さん、友人が大奮闘してくれるけれども、それでも終わらない。

演奏会のチラシ作り、案内状、招待状、合奏の予定調整、下合わせ、ホールの打ち合わせ、入場券販売、打ち上げの手配、お礼状、講習会の資料作り、教材の録音、楽譜の作成、結局原案は主催者が作らなければならないから、いくら手伝ってもらってもその部分の仕事は決して減らない。つまり最近の慌しさの原因は自分が主催する企画が多くなったことにある。

「忙中に閑有り」という言葉があるけれど、出典がはっきりしなかったのでインターネットで調べてみた。するとこの言葉を引用したページばかりが検索されて、肝心の出典にはたどり着くことが出来なかった。それだけこの「忙中閑」は広く流布しているというわけだ。私のおぼろげな記憶では、陽明学者の安岡正篤の書物に紹介されていたような気がする。あるいは安岡正篤自身の言葉だったか・・・。「死中に活有り」といったような、同じ韻を踏んだ言葉の集まりの中の一つだったと思う。

辞典で調べると「忙しさの中にもゆとりはあるものだ、あるいはゆとりを持つべきである」とあるが、これではお粗末な解釈だ。「閑」という一字に込められた思いはそんなふやけたものではないだろう。もっと気迫に満ちたというか、稟とした静けさでなければここに東洋好みの人物像が浮かび上がってこない。粛々と激務をこなして静寂を漂わすなんて、どこかニヒルな感じもして格好良いではないか。

 けれどもこれは飽くまでも「道徳的ヒーロー」であって、宗教的境地とは一線を画するように思われてならない。毎月一回、法身寺で「一音成仏」を念じて坐っている諸氏ならば、きっとこの思いに共感してくれると思う。「忙中有閑」でなくて「忙即閑」でなくてはならないと。

 しかし現実の自分はつくづく情けない。気が付くと忙しいのはカナワン、イヤダ、イヤダとわめき散らして暮らしている。先日、仕事仲間の田辺頌山さん(都山流尺八)に「それでもお酒を飲む時間はあるんでしょう!」と笑われて、その時私は全く口答えが出来なかったので、そういう自分が一番お粗末だと、苦笑するしかなかった。



真面目                          百錢会通信 平成20年9月号より

 一口に真面目といっても、融通の利かない糞真面目もあれば、道徳的な真面目もあるし、社会常識人としての真面目さ等々、表面的に分けて見れば色々な真面目があると思う。ところが私の仕事を手伝ってくれる寡黙な友人のNさんは、思い浮かぶその分類のどれにも当てはまらぬ“真面目人間”だ。

 「ジブンヲカンジョウニ入レズ」という有名な一節があるけれど、それがこれ以上ないというほどに、この人にとっては当り前となっている。口数が少ない。余計なことを口走るとまわりに要らぬ迷惑を掛けるかも知れないという自重が強く働いているようだ。畢竟生ずる膨大な沈黙の時間にNさんの内省的な思索は繰り返されたに違いない。その形跡が少ない会話の言葉の端々に感じられるので、私はそれに強く惹かれて、仕事の打ち合わせが終わるといつしかNさんと四方山話したさに迷惑も顧みずについ一杯誘ってしまう。

 先日も私が無理矢理すすめたビールグラス片手に、Nさんは最近仕事で訪ねた小さなレストランでの話をしてくれた。たまたま尺八の話題になった時、その女性オーナーは、子供のころ父親が枕元でよく尺八を吹いてくれたのが懐かしいと、述懐したというのだ。ただそれだけの話だけれど、いまどき子守唄代わりに尺八を聞かせる父親の姿など想像だにできないものだから、私は思わず目を丸くしてしまった。もっと目を丸くしてしまったのはNさんの些細なコメントだ。「映画『警察日記』の1シーンみたいですね・・・」。聞くと主人公の森繁久弥が枕元で「千鳥曲」を吹いて子供を寝かしつける場面があるそうだ。

この映画は1955年が初公開だからかなり古いものだ。偶然というか、原作者の伊藤永之助は実は私の義姉の祖父にあたる人で、その縁があったからリバイバルで私も見たことがあるけれど、我々の年代でこの映画の一シーンを咄嗟に思い出せる人はそういないと思う。恥ずかしながら私は尺八吹きであるにも拘らず、そんなシーンは全く失念していた。Nさんは、50年の月日を経て日本の民衆の生活が如何に激変したかを、この尺八のシーンを見て鋭く心に焼き付けたのだろう。

石川県という土地は、人の心をして何かを深く掘り下げずにはおかない空気があるのではないかという先入観が私にはある。この土地の輩出した数多くの文化人の中に、父の敬愛して止まない鈴木大拙があることがその理由だ。Nさんも能登の生まれだと聞いて、きっとその土壌に培われた人だと思っている。

そこで私は石川県に話を振った。同県出身の画家に鴨居玲という人がいて、私はこの人の痛切な作品がとても気になって仕方がないとNさんに話した。確か鴨居の先生も金沢出身の人だったと思うけど、名前を忘れてしまったと告げると、Nさんはその場でネット検索してくれた。「宮本三郎という人だ・・・、戦争画も書いてるんですね、あっ“撃ちてし止まむ”もそうだったのか」「“撃ちてし止まむ”って・・・?」「日劇の大ポスターですよ」

そう言われてようやく、戦争記録映画か何かで目にした記憶がボンヤリとよみがえって来た。こんな風にNさんとの会話はいつもとりとめもなく横道それて、それが実に楽しい。断っておくけれど決してマニアとか好事家の類の人物ではない。歴史や文化というものにいつもその精神が“真面目”に向き合っているのだ。

翌日早速こんな短いメールが届いた。「ところで、宮本三郎の「撃ちてし止まむ」ポスターですが、ネットで検証するかぎり、日劇の巨大のものとは別のカラーのポスターも出てきますので、日劇のは違うのかもしれません。」 どこまでも“真面目”に応対して下さるのにいつも頭が下がる。



箒が飛ぶのか、人間が飛ぶのか      百錢会通信 平成20年8月号より

 もう十年も前になる。娘が、庭でウンウン唸りながら箒にまたがって、一生懸命に空を飛ぼうとしていたことがあった。そのあまりに真剣な姿に大人は涙を流して笑った。

 「魔女の宅急便」というアニメーションを見て、真剣にのめり込んでしまった故の、幼くて純真な愚行であるけれど、なんで箒が飛ぶのだろう?という仕様もないことを、大人の我々でも、何故か不思議と考えたくなるような作品だった。

 制作者の宮崎駿も対談でそのことに触れていて、何故に箒は飛ぶのだろうということはかなり真面目に考えるのだという。だから物語の初めにはなかなか飛びそうもない、そのまま箒の絵がある。ところが段々その箒に浮力が生じてくる訳だ。面白いと思ったのは、魔女は空飛ぶ箒に乗るのではないのだという宮崎氏の指摘だ。なぜなら箒だけが浮いて魔女自身に浮力が生じなければ、痛くってとてもじゃないが長時間またがって飛ぶことなど出来るわけがないではないか、と・・・。

 箒を触媒にして魔女自身に浮力が生じてくるのだ。物語の中で、一度魔力を失った魔女が力を取り戻し、再び我が身に浮力を生ぜしめるその場面には、このアニメーターの異様なまでの力が込められていたように思う。だからこそ私の娘もやって見ようという気になってしまったのだろう。

制作者スタッフの心の中の「なんで箒が飛ぶのだろう?」という当初の疑問は、この場面の“儀式”を通過していつの間にか雲散霧消してしまったようだ。絵筆を握るものの心の中で、この浮力を生じた箒と魔女が、最早当たり前のように一体となって、動画の中の主人公は、初めて空を自由自在に駆け巡るのだ。

 竹筒である尺八を箒の棹に喩えたら、先達の虚無僧に怒られてしまうかもしれないけれど、私は久しぶりにこのアニメーションを見て、魔女の箒の浮く原理を尺八に置き換えてみたい衝動にかられたのだ。尺八の音に浮力が生じる。それを触媒に吹くもの自身にも浮力が生じて、自由の世界に飛び立つという図式は、決して机上の空論ではないと思う。

 



浅草三業組合                     百錢会通信 平成20年7月号より

最近共演させていただいたお囃子の方の都合で、先月は浅草へ足を運ぶことが多かった。芸大からも近いこの賑やかな街が、私は学生の頃から好きだったので、内心下合わせの日を楽しみにしていた。

ところが、何回通ってもいつも人が少ないのに拍子抜けした。休日や縁日でもないから当然と思われるかも知れないけれど、学生時代、私の浅草の印象は年中朝から晩まで人がごった返しているというもので、それを思うとビックリするくらいに閑散としたものだ。一度夜の八時ころに仲見世通り界隈の飲食店街を通り抜けたけれども、千鳥足の酔客などトンと見かけない。活気がないというより人間がいないという空気だ。浅草に暮らしている人自体が少なくなってしまったのだろうか。

下合わせは浅草寺裏の見番の一室をお借りした。入り口のガラス窓に浅草三業組合と書かれていて、さすが浅草、日本の花里文化健在かと思ったけれど、聞くとこの業界も風前の灯らしい。この世界には縁が薄くて気がつかなかったけれども、つい最近、柳橋の灯も忽然と消えて世間の話題にもならなかったという。そういえば学生時代に同じように赤坂の見番の一室を借りて練習したことがあったけれども、その建物もその直後に取り壊されてしまった。

浅草寺界隈の路地は江戸門前町の情緒を演出するオブジェを散りばめて随分と綺麗にリメイクされたが、私はちょっと違和感を覚えた。お囃子の友人はそれをウマイ言葉で指摘した。「浅草は日光江戸村みたいになって欲しくないんだよね・・・」

友人は加えてもう一つ意味深い言葉をつぶやいた。「浅草は観音様の信仰があってこその賑わいなのに」と。

商業主義が根こそぎ文化の形を変革していくことは間違いない。背に腹は変えられぬとばかりに観光ビジネスに撃って出て街は偽物の装飾で満ち溢れる。貨幣経済は人間の作り出した便利なシステムだったのだろうけれども、実体を伴わない莫大な貨幣が目にも止まらぬ速さで地球を駆け巡る時どういうことが起こるのか、ここまで異常な世界を誰が想像しただろうか。「金」という人間の作り出した「化け物」に自分が滅ぼされる歴史の中の、今は中期なのか末期なのか、私にはわからない。できることなら末期であってほしい。これ以上の深みがないのなら、腹をすえて立ち向かう気力も湧いてこようというものだ。しかし現実はそう甘くもなさそうだ。

政財官の若いエリートは精々カラオケの喉を鍛えて、クラブの麗人に日参するのだろう。本物の芸を鑑賞できる粋人の客は次々と鬼籍に名を連ねる。もしかするとあの世で、閻魔大王をお茶屋にご招待、芸者をあげてまさしく浮世離れの大宴会でも催しているのだろうか。どの道、私には縁の薄い世界であるけれど、その根本の事情を知れば、あながち対岸の火事と、あぐらをかいてはいられないのだ。



夜雨                            百錢会通信 平成20年6月号より


 夜、明かりを消して湯舟につかるのが今お気に入りの気分転換だ、という誰かの話がラジオから流れて来て、世の中同じようなことを考える同類の仁はいるものだと、思わず失笑してしまった。夜中に真っ暗の浴室なんて気味悪いじゃないかと家人は呆れるけれど、薄暗くて何もかもぼんやりとしか見えない空間は、意外に心がほどけるものだ。ついでに窓から月の明かりでも差し込んでくれば他に言うことはない。

これから梅雨を迎えるから月夜は期待できないけれど、風呂につかりながら雨の音を聞くのも私は好きだ。特に林の樹木などに降りつける雨音は都会のそれとは違い、響きが柔らかでしかも神秘的な奥行きがある。群馬の稽古場は山林の中だから、泊りがけの稽古が生憎の雨天でも、それはそれでこうした楽しみがある。自然の音楽に時折耳を傾けることができるのは幸福なことだ。

思い起こせば私は幼少の頃から、家の中にいて雨の音を聞くのが好きだった。ちょうど鬼ごっこで安全地帯に逃げ込んだ時のような気分で、大粒の本降りにでもなれば尚更、今の自分の居場所が雨の「攻撃」から守られているように感じられて、そんな他愛もないことに、小さな胸を小躍りさせたものだった。ところがそんなワクワクするような気分がずっと長続きするわけもなく、ささやかな心の高揚が鎮まってくると、やがて雨音の中に妙な静けさが感じられて来くるのだ。群集の中にあって却って孤独を募らせるのにもどこか似た気分で、何でそんな気持ちになるのだろうと子供心にも不思議に思ったものだ。これも一種のアンビバレンスというのだろうか・・・。

織田有楽斎の建てた「如庵」という有名な茶室の写真を見た時、こういう屋根の家に住んでみたいものだと、無性に思ったことがある。確か高校生の時だったと思う。今やこの歳になれば、私のような財力ではとてもとても手の届かない家屋だという現実を思い知らされたから、もうそんなことを夢見ることは無くなってしまったけれど、写真を見るとやはり当時の気持ちが少しだけ甦って来る。「柿茸(こけらぶき)入母屋風」というそうで、要は樹木の表皮を葺いた屋根に私は憧れたのだ。

父はいわゆる草庵にこだわりのある人物だからそのことを話してみると、その時意外な答えが帰ってきたのを良く覚えている。「惠介なぁ、あの屋根は雨の音が格別なんだ・・・」。見た目の風情に感激して話しかけたのに、その応答の一言は、幾重もの心の襞を通り抜けて来たことが察せられて、私は黙ってしまった。だから父がどこでそんな経験をしたのかというような、枝葉の話はその時に聞かなかったけれど、大方、虚無僧の旅の夜露を凌ぐために忍び込んだ、当時はまだ長閑に残っていた無人の庵の中に、?葺、桧皮葺の類のものがあったのだろうと見当をつけている。風呂もなければ、もちろん電気も無い。



新緑                            百錢会通信 平成20年5月号より

                                  
 
桜が散って連休の近づく頃、目に映る若葉の緑に私の心はいつも踊り出してしまうのである。それで何度も繰り返して同じことを会報の話題にして来て、内心それが何となく芸がないような気がしていたけれど、いっそのこと毎年五月号の題は「新緑」にしてしまおうかという気になって来た。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」というけれど、そう遠くない過去から今に至る、己の心の内の移り変わりというものは、自分ではなかなか気づかないものだと思う。ここでは花ではないけれど、毎年変わらぬ緑への思いを書き記し続けていれば、わずかな心の変化に気付くことが出来るかも知れないという実験を思いついたのだ。

 さて本題。百錢会の有志十数名と上野村の御巣鷹山に登ったのは、もう6年も前のことだ。雲ひとつ無い好天に恵まれて、この上なく清清しい五月の空気を満喫した。吸い込まれるような青空の下で、まさに萌える新緑に包まれた時は、本当に神様のご褒美に感謝したい気分だった。ところで、その時の楽しい思い出の中で、最近やけに思い出されてならないのが、落葉松の新緑だ。

 一枚一枚はとても小さな葉だったと思う。山道で見上げるその葉は割合に近くで見ているのに、枝と葉の繋がっている部分がどうもはっきり見えない。すると無数の葉の若い緑が、幹の回りに絶妙な距離とバランスを保ちながら浮遊しているようで、その姿はなんとも言えず幻想的だった。

「宙に浮く」という言葉が鍵だ。そう思ったら、同じような言葉を口にした、複数の知人との会話が一遍に蘇ってきたので、それを思いつくままに記しておく。

その一。つい先日発表したZEN YAMATOのCDの中に「秋風曲」が収録されているけれど、箏の山登松和さんは、初めての合わせの時に、歌いだしの「求むれど」というところに苦心していると仰っていた。「下からすり上がるのでもなく、押し出すのでもなく、フワっと浮くように唄いだしたいんだよね・・・」、と。あれから何度もこの曲を舞台で共演させて頂いたけれど、山登さんは少しずつその目標を実現してくれるものだから、私もつい嬉しくなってしまう。

その二。「虚無尺八」の照明の演出をお願いしている、小澤明彦氏の談。「明りはね、立て役者を板(舞台の床のこと)から浮かすことができたら成功。でもこれが中々出来ないんだ・・・」

その三。かつての虚無僧研究会の重鎮、故岡本竹外先生は、虚無僧についての話題が無尽蔵で、興に乗って話し出すと終わらなかったけれど、時には三味線のことを語られることもあった。「川瀬里子の三絃は凄いと思ったね。音がね、宙に浮いて目の前を通り過ぎていくのが見えるんだから!」こういう断定の言葉は何度思い出しても愉快でならない。

番外。私の周りで「霧海?」という曲をいい曲だと言って、大事に教えてくれた人はいなかったけれど、なのに私がこの曲が好きで仕方なくなってしまったのは、霧、すなわち小さな水の粒子が立ち昇る様を思い描いてこの曲を吹いていると、その内に自分が浮き上がっていくような気分になってしまうことが度々起こったからだ。もっともそれは、今よりずっと呼吸法が未熟で、酸欠による軽い目眩の所為だったかも知れないけれど・・・。

宙を舞う気分の良さに理屈はない。それは子供が夢中でブランコに揺られ続けるのにも少し似ていると思う。

そういう訳で以来この季節は、街中でも小さな葉の樹木があるとつい目が向いてしまう。緑が宙に浮いている空間。その中に佇んでいると、ある瞬間に、時空を横滑りして異次元の世界に迷い込んでしまわないだろうか、などという、更に子供じみた妄想が膨らんでくることがある。笑われてしまうだろうけれど、私はそういうことを真面目に感じ続けたいと思っている。



柿島屋 -4?-                  百錢会通信 平成20年4月号より

町田に「柿島屋」という馬肉専門の居酒屋があることは、以前にもこの会報で何度か話題にしたことがあったと思う。それで今回が何回目になるか失念してしまったので、回数に?をつけて、懲りもせずに今月も酒場の話である・・・。

この店を教えて下さったのは、私の二人の恩師である。一人は相模原市在住の小学校時代の担任で、もう一人は高校の書道の先生である。小学校の恩師は「飲み師」の選ぶ酒場の定石としてこの店を教えてくれたので、もちろん共に暖簾をくぐって、ここでは何を肴に(といっても馬肉以外に無いのだが)何を呑むべしと、有難い実地のご指導を頂いたものだった。

ところがもう一人の先生は、暖簾の内側に興味は無し。入り口に掲げられた看板の書は一見の価値ありと、正規の授業の中で教えて下さったのだ。隷書体なので、流石に「馬」の文字が含まれているのはわかるけれど、あとは何が書かれているかさっぱりわからない。けれども格調の高さと筆勢の力強さは理屈抜きに伝わって来る。以来この店に入る時は、先ず足を留めてこの書を眺めるのが習慣になっている。つまりは二人の恩師の教えを、私は今も真面目に守っているのだ・・・。

中はいたって大衆の酒場だ。店内は改装されてすっかり近代的になったが、それでも昭和の雰囲気は色濃く残っている。だいたい「梅割り」とか「ホッピー」などという酒が堂々と御品書きに名を連ねているのは、その昔、焼酎が清酒などに比べて格段に安かったころの庶民の趣向を、今に残している動かぬ証であろう。こういう店には仕事帰りの一人客が絵になる。黙って酔いを楽しんでさっさと帰って行くという具合に・・・。

ところが近年に拡張した店内は、グループ連れの客で大層賑わっている。奥には掘り炬燵式のテーブル席もあって、ここは料金が割高になるというのに結構埋まっているのだ。ある日そのテーブル席で、御歳八十も越えようかという、同期会といった雰囲気の五、六人連れが、静かに盃を傾けていた。じろじろと見るわけには行かないけれど、私はこの店の客の姿を眺めるのが好きなのだ。さて安い席に陣取った私の向かいには、客筋の“王道”を行く、定年も近づいた風のサラリーマンが一人、目をつぶって美味そうにコップ酒を飲み干していた。その前をほろ酔いに仕上がった、先のテーブル席の一団が通り過ぎて行こうとした時、突然その一人客は直立して「先生!」と声を掛けた。恩師に偶然出会ったという状況らしい。お得意の客や上司にも、ここまで深くは頭を下げないだろうというほどに、少々薄くなった頭を恥ずかしげもなく見せて深々とお辞儀する様には、彼の師に対する、一方ならぬ尊敬と感謝の念が滲み出ていた。一通りの挨拶を終えて一団を送り出し、居残った客がこぼれるような笑みを隠さず、上機嫌で酒を追加するのを見て、私は胸の奥が熱くなった。

近頃の学校の卒業式で「仰げば尊し」を歌うことは皆無に近いと聞く。現代の教育界を無責任に批判するつもりはない。ただ、この店にこんな光景が生まれることはやがて消えて無くなるのだろうなと予測されてしまうことが、少々淋しかったのだ。

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